【随想】歴史の見かた楽しみかた
九條です。
古代史のなかでもとりわけ有名な聖徳太子さん。彼が亡くなった後、彼の子どもたちはどうなってしまったのでしょうか。そしてその後に歴史はどのように動くのでしょうか?
聖徳太子亡き後の古代史を追ってみました。
はじめに
皆さまに歴史、とりわけ日本の古代史のおもしろさをお伝えしたくて、『日本書紀』の記述をもとに「大化改新」という事件を中心に据えて(『日本書紀』だけを読んで)この記事を書きました。
少し長いですが、ごくごく簡単に(複雑な事象をできるだけ単純化して)分かりやすくまとめたつもりです。誰もが知っている「聖徳太子」と「大化改新」について興味がおありのかたは、よろしければ御一読ください。
その前に、歴史の勉強の辛さについて、ほんの少しだけ触れておきます。
歴史学習の問題点
歴史の勉強って、覚えることばりで苦痛ですよね。それって、学校(小・中・高校)での勉強のしかたがよくないと思うのです。けれども、学校で勉強する時間は限られていますから、仕方がない部分もあるとは思うのですが…。
たとえば、
このように学校では教わって、覚えますね。学校ではこれで終わり。暗記しておしまい。けれども、これではつまらないし、覚えるのも苦痛だと思います。ほんとうの歴史の勉強というのは…
このようなことを調べ、その時のドラマを知ることが歴史の勉強であり、歴史のいちばんおもしろいところだと思うのです。
歴史とは
歴史というのは、人々の毎日の生活、そしてその中で繰り広げられる日々の想いの積み重ねですから、
「何年に何が起きたのか(誰が何をしたのか)」
が重要なのではなくて、
「そのできごとの背景には何があったのか」
「なんでそのできごとがその時に起きたのか」
を考えることが大事だと思います。私が大学へ入って歴史学を専攻したときに、
「年代なんて覚える必要はありません。そんなものは年表を見れば分かることですから」
と担当の教授は言いました。
大化改新のドラマ
では、ここで乙巳の変(大化改新)をごくごく簡単にふり返ってみたいと思います。このドラマのおもな舞台と登場人物は、
です。
血筋と人間関係
さて、これらの人たちの関係を見てみると、聖徳太子の叔母さんにあたる推古天皇は、日本最初の女帝(男系の女性天皇のこと)です。彼女の父は欽明天皇で、母は蘇我堅塩姫。この蘇我堅塩姫は、蘇我稲目の娘でした。つまり推古天皇は蘇我稲目の孫で、蘇我氏の血をひいている天皇だったのです。
聖徳太子の母は穴穂部間人皇女で、彼女は蘇我稲目の娘の蘇我小姉君の子。やはり穴穂部間人皇女も蘇我稲目の孫にあたり、蘇我氏の血をひいている女性でした。ですから聖徳太子は蘇我稲目の曾孫にあたるわけです。
そして聖徳太子自身も、蘇我馬子の娘のひとり刀自古郎女を妃にしています。この聖徳太子と刀自古郎女との間にできた子が山背大兄王です。
こう見てくると、当時の天皇や皇族には蘇我氏の血が流れていることがわかりますね。
推古天皇と聖徳太子
西暦593年。推古天皇が即位され、その天皇の政治を補佐するかたちで聖徳太子が摂政となりました。この推古天皇と聖徳太子がともに力を合わせて政治をしたところが飛鳥(奈良県の明日香村)にある小墾田宮です。
ここで「冠位十二階」や「十七条憲法」が発布されました。しかし聖徳太子は西暦622年に死去し、推古天皇も西暦628年に病気で崩御されました。聖徳太子の子の山背大兄王は、強力な後ろ盾を失ったかたちとなりました。
乙巳の変(大化改新)勃発前夜
当時権勢を振るっていたのは蘇我蝦夷とその子の入鹿でした。とくに蘇我入鹿の性格は横暴で、まるで自分が天皇のように振る舞い、周りの人たちにとって「暴君」のような存在となっていました。この入鹿の病的な性格には父の蝦夷も恐れていたことでしょう。
西暦628年に第33代天皇の推古天皇が病気で崩御され、その跡継ぎ問題が浮上しました。跡継ぎ候補としては第30代天皇であった敏達天皇の孫である田村皇子(のちの舒明天皇)と聖徳太子の子である山背大兄王の2人が有力でした。
蘇我蝦夷・入鹿の親子はこのとき田村皇子を強く推していました。その理由は、田村皇子が蘇我蝦夷・入鹿親子にとって操りやすい人で、蝦夷と入鹿は意のままに田村皇子を操ってますます自分たちの権力を強化しようと目論んでいたからです。
その蘇我蝦夷・入鹿親子にとって邪魔だったのが聖徳太子の子である山背大兄王だったのです。この時には、蘇我蝦夷・入鹿親子の目論み通りに田村皇子が即位して舒明天皇となられました。
西暦641年にその舒明天皇が崩御され、再び跡継ぎ問題が浮上しました。この頃にはすでに蘇我蝦夷は政界から引退し、息子の入鹿が権力をほしいままにしていました。この頃の入鹿の言動は目に余るものがあったと伝わっています。
舒明天皇の跡継ぎ候補は山背大兄王が有力でした。しかし入鹿はまたもや自分にとって操りやすい人だった舒明天皇の后の寶女王(のちの皇極天皇)を即位させました。
蘇我入鹿の心の闇
西暦643年。蘇我入鹿はとうとう彼にとって邪魔者であった山背大兄王をはじめとした上宮王家一族を滅ぼしてしまいます。この入鹿が山背大兄王をはじめ上宮王家一族を滅亡させたことを知った入鹿の父の蝦夷は激怒し、そして「これで我が蘇我一族も終わりだ」と嘆いたそうです。
このとき「入鹿を生かしておくわけにはいかない」と心の中で思った人が多くいたことでしょう。
西暦643年に聖徳太子の血をひく皇族の上宮王家が、豪族の長に過ぎなかった蘇我入鹿に滅亡させられたというこの事件。これが世の中に与えた衝撃は計り知れないものがあったでしょう。そして「このままでは、いつ、何が起こっても不思議ではない」という息が詰まるような重くて不穏な空気が世の中に充満していたことと思います。
乙巳の変(大化改新)
このような経緯があって、蘇我入鹿は絶対的な権力を手に入れて独裁的な政治をしていました。これに対して表面的には入鹿のいうことを聞いていても心の中では面白くない思いをしている人たちが多くいました。中臣鎌子(後の藤原鎌足)や蘇我氏のなかでも傍流であったために蘇我入鹿から冷遇されていた蘇我倉山田石川麻呂たちでした。
西暦645年。とうとう蘇我入鹿の横暴な振る舞いに耐え切れなくなった中臣鎌子(後の藤原鎌足)や蘇我倉山田石川麻呂は、板蓋宮において突然、皇極天皇の目の前で蘇我入鹿の首を刎ねました。その知らせを聞いた入鹿の父の蝦夷も自宅に火をつけて自ら命を絶ちました。
時代は動いた!
このことにより、蘇我本宗家(蘇我一族の本流)は途絶えました。政治の権力は蘇我氏から藤原氏へと移り変わって行きます。
こうして時代は飛鳥時代から奈良時代へ向かって、ダイナミックに動き始めるのです。
【参考資料】
国史大系版『日本書紀』(後編)吉川弘文館 1973年
©2022 九條正博(Masahiro Kujoh)
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