見出し画像

【随想】歴史の見かた楽しみかた

この記事は、2022年2月22日に『大阪歴史倶楽部』に投稿したものを少し編集してここに転載したものです。

九條です。

古代史のなかでもとりわけ有名な聖徳太子さん。彼が亡くなった後、彼の子どもたちはどうなってしまったのでしょうか。そしてその後に歴史はどのように動くのでしょうか?

聖徳太子亡き後の古代史を追ってみました。


はじめに

皆さまに歴史、とりわけ日本の古代史のおもしろさをお伝えしたくて、『日本書紀』の記述をもとに「大化改新」という事件を中心に据えて(『日本書紀』だけを読んで)この記事を書きました。

少し長いですが、ごくごく簡単に(複雑な事象をできるだけ単純化して)分かりやすくまとめたつもりです。誰もが知っている「聖徳太子」と「大化改新」について興味がおありのかたは、よろしければ御一読ください。

その前に、歴史の勉強の辛さについて、ほんの少しだけ触れておきます。


歴史学習の問題点

歴史の勉強って、覚えることばりで苦痛ですよね。それって、学校(小・中・高校)での勉強のしかたがよくないと思うのです。けれども、学校で勉強する時間は限られていますから、仕方がない部分もあるとは思うのですが…。

たとえば、

西暦645年。乙巳いっしの変(大化改新たいかのかいしん)。
中臣鎌子なかとみのかまこ(後の藤原鎌足ふじわらのかまたり)らが蘇我入鹿そがのいるかを滅ぼす。

このように学校では教わって、覚えますね。学校ではこれで終わり。暗記しておしまい。けれども、これではつまらないし、覚えるのも苦痛だと思います。ほんとうの歴史の勉強というのは…

なんで645年だったのか?
その前にいったい何があったのか。
そのとき人々は何を感じ、何を考え、どう動いたのか?

このようなことを調べ、その時のドラマを知ることが歴史の勉強であり、歴史のいちばんおもしろいところだと思うのです。


歴史とは

歴史というのは、人々の毎日の生活、そしてその中で繰り広げられる日々の想いの積み重ねですから、

「何年に何が起きたのか(誰が何をしたのか)」

が重要なのではなくて、

「そのできごとの背景には何があったのか」
「なんでそのできごとがその時に起きたのか」

を考えることが大事だと思います。私が大学へ入って歴史学を専攻したときに、

「年代なんて覚える必要はありません。そんなものは年表を見れば分かることですから」

と担当の教授は言いました。


大化改新のドラマ

では、ここで乙巳いっしの変(大化改新たいかのかいしん)をごくごく簡単にふり返ってみたいと思います。このドラマのおもな舞台と登場人物は、

舞台(当時の皇居)
小墾田宮おはりだのみや推古天皇すいこてんのうの皇居)
板蓋宮いたぶきのみや皇極天皇こうぎょくてんのうの皇居)


登場人物
【天皇】
推古天皇すいこてんのう(第33代天皇)
舒明天皇じょめいてんのう(第34代天皇)
皇極天皇こうぎょくてんのう(第35代天皇)

【皇族(上宮王家じょうぐうおうけ)】
厩戸皇子うまやとのみこ(聖徳太子)
刀自古郎女とじこのいらつめ(聖徳太子の妻)
山背大兄王やましろのおおえのみこ(聖徳太子の子)

蘇我そが一族】
蘇我蝦夷そがのえみし
蘇我入鹿そがのいるか
蘇我倉山田石川麻呂そがのくらやまだいしかわまろ

中臣なかとみ(後の藤原)一族】
中臣鎌子なかとみのかまこ(後の藤原鎌足ふじわらのかまたり

です。


血筋と人間関係

ここの説明は少し「ややこしい」「面倒くさい」と感じられる方もおられるかと思います。その時には、この「血筋と人間関係」の項目は飛ばして読んでいただいても差し支えありません。

さて、これらの人たちの関係を見てみると、聖徳太子の叔母おばさんにあたる推古天皇すいこてんのうは、日本最初の女帝じょてい(男系の女性天皇のこと)です。彼女の父は欽明天皇きんめいてんのうで、母は蘇我堅塩姫そがのきたしひめ。この蘇我堅塩姫そがのきたしひめは、蘇我稲目そがのいなめの娘でした。つまり推古天皇すいこてんのう蘇我稲目そがのいなめの孫で、蘇我氏の血をひいている天皇だったのです。

聖徳太子の母は穴穂部間人皇女あのおべのはしひとのひめみこで、彼女は蘇我稲目そがのいなめの娘の蘇我小姉君そがのこあねのきみの子。やはり穴穂部間人皇女あのおべのはしひとのひめみこ蘇我稲目そがのいなめの孫にあたり、蘇我氏の血をひいている女性でした。ですから聖徳太子は蘇我稲目そがのいなめ曾孫ひまごにあたるわけです。

そして聖徳太子自身も、蘇我馬子そがのうまこの娘のひとり刀自古郎女とじこのいらつめきさきにしています。この聖徳太子と刀自古郎女とじこのいらつめとの間にできた子が山背大兄王やましろのおおえのみこです。

こう見てくると、当時の天皇や皇族には蘇我氏の血が流れていることがわかりますね。


推古天皇と聖徳太子

西暦593年。推古天皇すいこてんのうが即位され、その天皇の政治を補佐するかたちで聖徳太子が摂政せっしょうとなりました。この推古天皇すいこてんのうと聖徳太子がともに力を合わせて政治をしたところが飛鳥あすか(奈良県の明日香あすか村)にある小墾田宮おはりだのみやです。

ここで「冠位十二階」や「十七条憲法」が発布されました。しかし聖徳太子は西暦622年に死去し、推古天皇も西暦628年に病気で崩御されました。聖徳太子の子の山背大兄王やましろのおおえのみこは、強力な後ろ盾を失ったかたちとなりました。

小墾田宮跡推定地(九條正博 撮影)


乙巳いっしの変(大化改新たいかのかいしん)勃発前夜

当時権勢を振るっていたのは蘇我蝦夷そがのえみしとその子の入鹿いるかでした。とくに蘇我入鹿そがのいるかの性格は横暴で、まるで自分が天皇のように振る舞い、周りの人たちにとって「暴君」のような存在となっていました。この入鹿の病的な性格には父の蝦夷も恐れていたことでしょう。

西暦628年に第33代天皇の推古天皇すいこてんのうが病気で崩御され、その跡継ぎ問題が浮上しました。跡継ぎ候補としては第30代天皇であった敏達天皇びだつてんのうの孫である田村皇子たむらのみこ(のちの舒明天皇じょめいてんのう)と聖徳太子の子である山背大兄王やましろのおおえのみこの2人が有力でした。

蘇我蝦夷そがのえみし入鹿いるかの親子はこのとき田村皇子たむらのみこを強く推していました。その理由は、田村皇子たむらのみこ蘇我蝦夷そがのえみし入鹿いるか親子にとってあやつりやすい人で、蝦夷えみし入鹿いるかは意のままに田村皇子たむらのみこあやつってますます自分たちの権力を強化しようと目論もくろんでいたからです。

その蘇我蝦夷そがのえみし入鹿いるか親子にとって邪魔だったのが聖徳太子の子である山背大兄王やましろのおおえのみこだったのです。この時には、蘇我蝦夷そがのえみし入鹿いるか親子の目論もくろみ通りに田村皇子たむらのみこが即位して舒明天皇じょめいてんのうとなられました。

西暦641年にその舒明天皇じょめいてんのうが崩御され、再び跡継ぎ問題が浮上しました。この頃にはすでに蘇我蝦夷そがのえみしは政界から引退し、息子の入鹿いるかが権力をほしいままにしていました。この頃の入鹿いるかの言動は目に余るものがあったと伝わっています。

舒明天皇じょめいてんのうの跡継ぎ候補は山背大兄王やましろのおおえのみこが有力でした。しかし入鹿いるかはまたもや自分にとってあやつりやすい人だった舒明天皇じょめいてんのうきさき寶女王たからのひめみこ(のちの皇極天皇こうぎょくてんのう)を即位させました。


蘇我入鹿の心の闇

西暦643年。蘇我入鹿そがのいるかはとうとう彼にとって邪魔者であった山背大兄王やましろのおおえのみこをはじめとした上宮王家じょうぐうおうけ一族を滅ぼしてしまいます。この入鹿いるか山背大兄王やましろのおおえのみこをはじめ上宮王家じょうぐうおうけ一族を滅亡させたことを知った入鹿いるかの父の蝦夷えみしは激怒し、そして「これで我が蘇我一族も終わりだ」と嘆いたそうです。

このとき「入鹿いるかを生かしておくわけにはいかない」と心の中で思った人が多くいたことでしょう。

西暦643年に聖徳太子の血をひく皇族の上宮王家じょうぐうおうけが、豪族ごうぞくの長に過ぎなかった蘇我入鹿そがのいるかに滅亡させられたというこの事件。これが世の中に与えた衝撃は計り知れないものがあったでしょう。そして「このままでは、いつ、何が起こっても不思議ではない」という息が詰まるような重くて不穏な空気が世の中に充満していたことと思います。


乙巳の変(大化改新)

このような経緯いきさつがあって、蘇我入鹿そがのいるかは絶対的な権力を手に入れて独裁的な政治をしていました。これに対して表面的には入鹿いるかのいうことを聞いていても心の中では面白くない思いをしている人たちが多くいました。中臣鎌子なかとみのかまこ(後の藤原鎌足ふじわらのかまたり)や蘇我氏のなかでも傍流ぼうりゅうであったために蘇我入鹿そがのいるかから冷遇されていた蘇我倉山田石川麻呂そがのくらやまだいしかわまろたちでした。

西暦645年。とうとう蘇我入鹿そがのいるかの横暴な振る舞いに耐え切れなくなった中臣鎌子なかとみのかまこ(後の藤原鎌足ふじわらのかまたり)や蘇我倉山田石川麻呂そがのくらやまだいしかわまろは、板蓋宮いたぶきのみやにおいて突然、皇極天皇こうぎょくてんのうの目の前で蘇我入鹿そがのいるかの首をねました。その知らせを聞いた入鹿いるかの父の蝦夷えみしも自宅に火をつけてみずから命を絶ちました。

蘇我蝦夷の邸宅があった甘樫丘から耳成山を望む
(九條正博 撮影)


時代は動いた!

このことにより、蘇我本宗家ほんそうけ(蘇我一族の本流)は途絶えました。政治の権力は蘇我そが氏から藤原ふじわら氏へと移り変わって行きます。

こうして時代は飛鳥あすか時代から奈良時代へ向かって、ダイナミックに動き始めるのです。



【参考資料】
国史大系版『日本書紀』(後編)吉川弘文館 1973年


©2022 九條正博(Masahiro Kujoh)
無断引用・無断転載を禁じます。

この記事が参加している募集

日本史がすき