【エッセイ】スーパーで鎌倉時代に飛んだ話
先日スーパーでこんなものを見かけた。
毎度突然だが、そのときの私の話をしたい。
「すぐき」とは、漢字で書くと「酸茎」のこと。
「すいくき」と読むこともあり、今でいうお漬物の一種を示す。
私が、その単語に初めて出会ったのは「沙石集」だったと思う。
かつて私が高校生だったとき、何かしらの過去問の一題に「沙石集」が取り上げられていた。
ある種のオタク心に火がついて、無駄に語ってしまいそうになるので、今その話自体を掘り下げることはしない。
ただ「すぐき」の出てくる話があって、それがなかなかユーモアのある話しで好きだったからよく覚えている。それを、思い出したのだ。
あの瞬間、スーパーで「沙石集」のことを考えていた人間は、恐らく地球上全部で見ても私だけだったのではないだろうか。知らんけど。
そんなわけで、スーパーのお漬物ゾーンの前で、私の思考は一気に古典の世界、鎌倉時代へと吹き飛んだ。
何を言っているかわからないと思うが、こんな自分が結構好きだ。
一度脳みそが「国語の扉」を開くと、途端に脳内がそういう世界に切り替わる感じがする。
そもそも私は日頃から、「国語って面白いよなー」なんて、漠然としたことを思いながら生きている変な人間なので、その扉を開くのは難しいことではない。
安直ながら、レモンを見ると、乱雑に積まれた華やかな本の上の小さな爆弾のことを思うし、トンネルを抜ける瞬間は天気を問わずに「雪国」の冒頭が頭に浮かぶ。
喉風邪をひくと、「あなた咽喉に嵐はあるが」と誦じる瞬間があるし、星空を見ると「星めぐりの歌」が心に流れる。
私の頭の中は、どうもその方面に広がりやすく、今なお心地よい風の吹く草原のように、私の心の中にはあり続ける。
決して賢ぶりたいわけでも、知識をひけらかしたいわけでもない。
頭の連想ゲームが、国語版で展開されているだけ。
猫のことを好きな人が、猫に関するモチーフについつい反応してしまうような感覚に近い。
そんなことに思考が働いていることを自覚する瞬間、私は「自分の人生の豊かさ」を何となく、嬉しく思う。
よく耳にすることだから、先んじて言っておく。
古文なんてわからなくても死なない。
漢文だって、別にわからなくても困らない。
それは、そう。
現代文は、まあ少しでも読めて理解できた方がいいかな。日本に住んでいるなら特に、説明書も契約書も、原則として日本語で書かれているだろうからね。
ただ、「知っていること」が多いと、普通に生きているだけでも、人生を見るときの色は間違いなく増す。
例えば「○○は激怒した」という一文に、「お!」となれるか。ひと昔前によく見かけたネタだが「春はあげぽよ」で、ふふっとなれるか。
今も昔も、夏の夜の蛍が美しさや、冬の早朝特有の空気の匂いは共通の感覚として生きている。
他の人が呼ばれたのに、自分が呼ばれたと勘違いして出て行ってしまった気まずさ、見た目が不細工で性格まで悪い人は何の取り柄もないと思ってしまう感覚…。(いずれも枕草子より)
こういうところには、現在と過去がリンクするような面白さもある。
そして、もちろんこれは国語に限った話では無い。
教壇に立っているときにも、実際そのようなことを語ってきた。
何だって「知らない」より「知っている」方が楽しめることが多い。感じ取れるものも多いし、考えることも豊かになる。
私は国語以外に興味関心を持たなかったせいで、素数が云々とか、元素記号がどうこうとかいう話題を、ストレートに楽しむことができない。
どういうことだろうなんて、いちいち調べてようやく「なるほど」となる。
調べる気にならなければ、面白そうな話題でもすり抜けてしまう──。
教養なんて、堅苦しい言葉になるかもしれないけれど、人生をより豊かに楽しむ手段は、そりゃないよりあるに越したことはない。
ただそれだけのことで、そう言ったことを伝えていきたい一心で、古文や漢文の授業をしてきたなと、しみじみ思い出した。
随分壮大な話になってしまったが、私はそんなことを考えながら、帰路の夕暮れの中で「ある日の暮れ方のことである」の一文を思い浮かべていた。
まあ今日は、晴れていたけどね!
次見かけたら「すぐき」を買ってみようかなあー。
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