健忘録〜元気な頃〜

この日も、体育の授業でいつものルートを楽しく一番で走り切ってゴールした。(小中高と、いつも学年で一番足が速かった。)


部活の先輩がオリンピック選手として、オリンピックに出場したので、母校で開催した大会にゲストとして呼ばれてデモンストレーションをやった。

私もその場にいたんだよね。


普通に笑って、


普通に友達の家で映画を見て、


普通に体育が苦手な友達が初めて授業で走る道を完走できるように、走り終わってからその子と一緒に走りながら「大丈夫、貴方ならイケるよ」とか「喉が乾燥して痛いなら、口を閉じて鼻から息吸ってごらん」とか、なんか色々声をかけてその子の人生初の完走を手伝った。


笑)


抗がん剤治療後に髪の毛が少し伸びてきて、でもまだまだショート。


普通に友達と昼ごはんを学校のベランダに出て食べたら、たったの10分20分、多くて30分程度なのに、友人は真っ赤に日焼けしてしまった。休み時間後、そこは危ないから出ちゃいけないってどの先生だったかに注意されたっけね。


毎日楽しかった。

なんかアレ? って思ったけど「大丈夫でしょ? なんだよこれ、ギャグかよ。ウケる」とか思ってたら、数日後に救急車で搬送された。


無意識に「だって、昨日まで普通に」と言いかけて、今に引き戻される。

あれから何年時間が経過していることか。


涙が……


あれ? 楽しい記憶なのに、普段はちょっとくらい涙ぐみそうになっても、止められるのに、なぜか涙が目頭に増えて溢れそうだ。


病気になったんだっけね。



どこか、あれがついさっきに感じる。心の砂時計が分裂し、その一つはあの時のまま止まって冬眠しているかのようにすら思える。


発病前のことをこんなにリアルに思い出したのは、いつぶりだろう?(((思い返せば、初めて別の病気だと告知された時は、一日だけ学校を休んで、泣いて、切り替えて、翌日から日常に戻った。その約1年後、別の病気になった時は、一度でもそのことをきちんと悲しんだか? もしかしたら、立ち止まったのって、これが初めてだったかも?)))


何故か、突如発病前のことを思い出し、発病直前周辺の「良い思い出」を思い出していたら、涙が出てきて、入院周辺のことも芋づる式に思い出したので、書きとめている。


正確には、一旦帰って後日入院して、そのまま悪化の一途を辿った。


毎週水曜日に親友二人がお見舞いに来てくれていた。赤毛の長身で、ちょっと体格が良い目の、緑の目をした、健康的に赤白く透き通るような皮膚の顔全体に淡い色のソバカスが綺麗さや上品さを際立たせる感じに散在する女の子と、私と同じくらいの身長に真っ黒でキレイに長〜い髪をした、日焼けしていないけどコンガリしていて目がまん丸の女の子。(一応は進学校なのかな?成績が悪いと、別の学校に転校になり、大体皆が母国ないし米英の上位校入学の常連だった。けど、特に厳しいとか、勉強が辛い環境ではない。なんか、普通に楽しく学校生活を送り、部活や遊びも普通にやってる、皆が普通の子供やティーンネイジャー。とはいえ、毎週水曜日に勉強や部活をほっぽりだして会いに来てくれるというのは、結構大きなイベントだった😊)黒髪のコンガリ肌色で目の大きい親友が、別日に兄貴と二人で、ちょうど消灯らへんに私の部屋に来てくれた。兄貴のスポーツカーをかっ飛ばした直後で、興奮気味。目も見開いて、普段よりも早口に、声も大きい感じで楽しく私に話し出した。私も正直嬉しい。ちょっと話していたい。しかし、消灯周辺なので、看護師さんがもうお見舞いはできないとその子に伝える。(運良く?運悪く?)彼女は現地の言葉がそんなに分かるわけではない。今度は、私に看護師さんが通訳を求めながら、消灯だからお見舞いは今できません(といったような内容のこと)を繰り返していた。私も友人の話を聞きながら、程よく会話しながら、ちょいちょいと消灯のことを何度か伝える。ただ、消灯だから帰れではなく、話が終わるまで本当は帰らないとだから、声を小さくって言った気がする。(ちょっと記憶が曖昧)結局、短時間だけど彼女がアドレナリンラッシュになったできごとは聞けて、少し話せて、気まずくない感じに消灯時間を超えず(ないし、そんなに超えず)短いお見舞いは終了した。


母の日にお見舞いに来てくれた友達に、院内のお花屋さんに連れて行ってもらい、犬の形に飾った真っ赤なカーネーションを買った。入院中に手元にお金がなかったのか、病室に忘れた私にお金を貸してくれて、彼女のお金で買わせてもらった。(ありがとう。実は、彼女が母の日だと言うまで、その日が母の日だと気がついていなかったが、おかげで気がつけた上に、素敵なカーネーションを大好きなお母さんに買えた。しかも、車椅子を押してもらって花屋に連れて行ってもらったのも、とってもいい思い出だ。)


そうそう、別の機会に抗がん剤治療前にとっても仲が良かった別の友人達がお見舞いに来てくれて、病院の地上階に一緒に行った。そこで、めっちゃ走ってスピード出して車椅子を押してくれて、すっごく爽快で楽しい経験ができた。(私は大のスピード好き。友達と過ごす時間が一番楽しい。入院前、毎日顔を合わせていたけれども、抗がん剤治療以来、なんだか趣味が行き違って自然と距離ができたのを忘れさせてくれる思い出だ。)


担当の看護師さんが病気で入院処置を受けると打ち明けてくれて、私は生まれて始めて他人のために涙を流した。そして、術後の頃には良くなっているだろうから、私が歩いてお見舞いに行くと約束したと思う。(補足:人が亡くなった時は、泣いたよ……正確には、御臨終ですとか言われた後も、点滴が流れて入っていた。血流がなければ、液体は流れ込まないと思い、矛盾しており、まだ生きているのではないかと思った。正直、ベッドに半座位で眠るように横たわっていた状態は、とても亡くなったようには見えなかった。その後、家族とカフェテリアに行った。人が亡くなって泣かない自分はなんて冷徹で酷い人間だと思い、彼との良い思い出をいくつもいくつも思い出し、もう二度と会えないのだと自分に心の中で言った。すると、涙が流れ、いつの間にか号泣しながら涙が止まらなくなり、叔母に抱きついて泣いていた。それ以外では、初めての他人のための涙だった。)


治療しても、治療の度に階段を降るように悪化した。


点滴棒を引っ張りながら、その看護師さんが私を見舞ってくれて、病理結果に2人で安堵した。


大部屋の隣の若い女性が退院し、斜め向かいの陽気な女性も退院した。



向かいの女性はいつしか寝たきりになった。そして、どんどん不調が現れて、家族とのやり取りがカーテン越しにちらほら聞こえる。


新しい患者さんが入院して来て、一緒に映画を見た。椅子はなかったので、私のベッドに腰をかけるか聞いたら、立ってみると…… 途中で疲れたからしゃがむねと声をかけてくれて、再びベッドに座るか尋ねたが、やはりしゃがむ方を選んだ。字幕があったか覚えていないアクション洋画だったんじゃなかったかな? 字幕はあった気がする。


彼女も晴れて退院して行った。


この間、呼吸がおかしいかもしれないと気がついた。けど、自分の勘違いであって欲しいと、何度も何度も自分で検証した。


記憶が正しければ、このあたりで窓際のベッドからドアにより近いベッドに移動したんじゃなかったっけ?



いくら検証しても呼吸がおかしいのは事実のようなので、教授回診で伝えた。


このあたりだったかな?


看護師さんが「退院したらメールしてね」と名刺サイズのカードにメールアドレスと名前を書いてくれた。それが絶対に無くならないように、大切にしまった(しまってもらった?)。(私は非常に律儀で、一度交わした約束は絶対に覚えてるし、絶対に守る。律儀で言葉に忠実。)


このあたりで、自分は絶対に生きると信じて疑ったことはなかったが、母には絶対に伝えておきたいことがあった。「私は今死んだとしても、世界で一番幸せだったよ。絶対に死ぬわけないけどね。」と。この「最高に幸せだよ、育ててくれてありがとう。」という気持ちは伝えたかった。


この後、入院大部屋初回メンバー(私が入院時のメンバー)に一足遅く参加するタイミングで新しく入院してきたキリスト教の患者さんが退院した後のベッドに新しい患者さんが入院して、真昼間から痛い痛いとナースコールを連発していた。


最初は穏やかで和気藹々としていた大部屋が、私ともう一人の患者さん(寝たきり二人組)を除いて何度か総入れ替えされていただろうか。


教授回診で呼吸のことを告げ、治療をし、このタイミングでもガクッと悪化した。指に血中の酸素濃度を測るサチュレーションモニターを装着したら、呼吸がおかしいと感じる時は70代に下がっていた。


勘違いではないかと、何度検証しても、体感的苦しさとモニターのアラーム音は連動し、数値がダーっと下がって70代前半になる。



とりあえず、個室に移動となった。



そして、これを何度も何度も繰り返す。この時期、MRIを撮影し、ICUに移動となった。(ICUに移動となった日にMRI撮影が施行された。)



MRI撮影直後のストレッチャーで病室に戻る途中で、呼吸ができなくなった。しかし、というか、だからこそ声が出ない。咄嗟にストレッチャーを押す主治医の手を掴んで異変を知らせたいと思うが、微塵も動けない。(寝たきりで動けないんだった。)



指に装着されたサチュレーションモニターを一瞥する。数値が崖を下るように低下していく。



進行方向に目線が行っている主治医の目をストレッチャーで横たわった状態で凝視し、「頼むから気がついてくれ」と何度も強く、ものすっごく強く願った。



すると、パッと私のことを見て、状態を確認してくれた。その瞬間、表情が一変した。



速攻でサチュレーションモニターの画面を確認し、著しい異変に気がついてくれた。



その瞬間、ICU病衣の私の服を引っ剥がし、胸元をエレベーターホールのど真ん中で露呈した。(他の患者さんはいなかったんじゃない? それどころではなく、私の目に入らなかっただけ?)



素っ裸な胸元には肉眼でハッキリ分かる皮膚症状があったようだ。その瞬間、幼稚園生の時に大きな飴玉を吸い込み、呼吸もできず、声も出ず、キッチンで皿を洗う母の服を引っ張った機のことを思い出した。(あの時は額に赤い点状出血があり、母が窒息に気がついたそう。即座に足首を握って、一瞬で天地がひっくり返り… キッチンでコウモリのように母に逆さまに吊るされたような体位になった。母が私の口から喉をめがけて指を突っ込み、嘔吐した時にまん丸の大きな飴玉も飛び出した。時は流れ、その後飴の形や大きさが変わったんじゃなかったかな?)



エレベーターホールで胸元の服を引っ剥がして、何かしらの皮膚症状を目撃した主治医は、即座にストレッチャーに積んでいた注射器を取り出し、私の目を見た。そして、その注射器の中身を私に注射した。(おそらく、アナフィラキシー時のエピネフリンだと予想される。そして、記憶が確かではないが、注射の承諾を口頭で確認され、頷いたことが予想される。)

何かの時に、「念のため〇〇積んどいてよかった」と主治医が口にしたのは憶えている。(((追憶のプロセス:朧げに、医師が主治医一人だったような、もう一人がストレッチャーの仰臥位の患者から見て左側にもいたような…… 「こっちは、別の建物の〜」と私に別の医師が笑顔で説明しながら、屋外エレベーターに乗った記憶がある。結構道系と構造や記憶は強い私が分かる風なことを言った時に、「さすが、頭いいね。」と褒められたことは覚えてる。このへんのいくつかの事象が混同され、このMRI後の緊急対応時に医師が私の右手か右肩くらいの位置の主治医一名だったか、進行方向足側の舵きりをするもう一人がいたか……どうだったかなぁ。この出来事の後、再び検査で院内を移動した時にもう一人…… 主治医以外の先生と結構話せたのは覚えている。緊急対応時、主治医一人だったっけ? 映像として見る記憶に、ストレッチャー右の主治医はハッキリおり、この一連のことはハッキリ何回でも再生できるんだけどなぁ。他をズームアウトして見れない。なんだか、もやっとするな…… 主治医が夏休みの時に、別の先生が担当してくれた時には、人工呼吸器装着中で、たしか色々移動はできなかった。後半、ICUから一般病棟に移った時の状況はあまり覚えていない…… )))


同日の晩、私は呼吸停止から挿管された。幸いにも、全てはICUでフルモニター装着中、麻酔科医が枕元におり、挿管も麻酔科医が円滑に行ったことが予想される。もしも、これが一般病棟で起きていたら、先ず間違いなく呼吸停止後5分など一瞬で過ぎていただろう。50%の確率で心停止していたことになる。すると、心停止時のモニターでナースステーションからダッシュで個室に来ても、5分以上経過していたかもしれない。すると、50%の確率で死亡しており、蘇生されても脳にある程度の後遺症があったであろうことは予想さる。


だから、この日私をICUに移動する判断は私の命も人生も救ってくれている。


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この日のICUでのカルテも看護記録ももう破棄されている。厳密には、もう少しドロドロした院内ドラマが起きた歴史的瞬間だった。このようなカルテ管理が法改正に繋がったと思われる。(記録にまつわるゴタゴタの理由や記録の改竄、その後のサマリーなど全ての記録がキレイさっぱり書き換えられたどころか、この挿管の記録が残っているかすら不明だ。けど、小児患者の記憶では九死に一生のスーパーセーブ。なぜ、記録を失くす必要があったのかは、よく分からない。正直、知りたくもない。疑ってもいない。でも、記録に手を加えられると、感謝しかなかったところに好奇心が湧く。それが人間の本能だ。別に、誰に聞いても断片的な記憶では、実態は分からない。なので、聞く気も調べる気もない。けど、他の患者さんでも、書かない、検査時期をズラして異常を見えない記録を残す、診てないし聞いてないことも書いちゃうってのは見たことある…… 体裁のために、患者のQOLや尊厳を代償に、不要で転院先なら即日できる検査をしたりするのも珍しくない。私の知ったこっちゃないんだけどさ…… ただ、ちょっと書いて発散しないとって時もあるよね。)




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