【限界】なんて越えてなんぼの人生

前回の投稿に引き続き、【限界】と言うワードについての持論を発信したい。【限界】って言葉は、なんとなくのイメージ、自分に対して使う印象が強い気がしている。私個人的にはあまり使わないし、普段から話の中で出でくる様なワードでもない。しかし、生きづらそうにしている人に限って、よく聞くワードだなって思った。「私はこんなに一生懸命頑張って、我慢して、耐え忍んでいるのに!」と言うニュアンスから、【自分の限界】と言うワードを発言しているように感じる。そりゃ、『自分だけが頑張ってるのに!』なんて思ったら、生きづらくもなるだろうなと納得する。
私個人の感覚として、それはつまり『他人への感謝や敬意の気持ちが低い』のではないかと思ったりする。私は逆に、『自分だけが頑張って生きている訳がない!』と思っている。この世に産まれて生きているだけで、皆、生きるために必死なのではないだろうか。いい事ばかりな人なんて、なかなか居ないのでは?って感じだ。受け入れ難い現実を【自分次第】に乗り越え、今を幸せに生きるための努力も重ねているはず。更に、人それぞれに理想の生き方は異なるだろうが、『少しでもなりたい自分に近づくために人間は頑張って生きてるのだ!』と考えるように意識している。仕事・夫婦・家族・家庭・その他交友関係に目を向けてみても、大概のことは結果的に【自分が選択した結果】じゃないのかな?と強く言いたい。他人の反応を伺って言いたいことを言わないのも【自分】だし、それを我慢と捉えて自分は頑張っていると思っているのもこれまた【自分】だ。職場や家庭に対しても、どれだけストレスを抱えたとて、現状その環境から抜け出し切れていないのも【自分】だと私は思う。本来のなりたい自分を追い求めていけば、きっと現状は変わるはずではないだろうか。なのに、そんな自分を思えば思う程、そうでない現状や自分に対して【自分の限界】なのだとなるのだろうか?結果、自暴自棄になったり、ストレス発散のため、なりたい自分とは裏腹な言動や行動を繰り返しているように私は見える。
正直、あくまで私の持論だ。私はあまり【自分の限界】を理解していない。しかし、個人的に思う類似語がいくつか思い浮かんだ。「無理・出来ない・知らない・分からない」等である。私は、これらの言葉達を嫌う理由を、彼から学んだお陰で今がある。具体的に言うと要は、この言葉を使った時点で全て【自分ではない他人任せ】となるからである。そもそも、【その気が無い】のだという印象や【自己責任】に対する意識の低さも連想される。
・無理→自分に対する諦め→他人任せ
・出来ない→やる気がない
・知らない→知ろうとしない
・分からない→分かろうとしない
時と場合や相手との関係性も影響すると思うが、『自分の人生』なのに『自分で求めることをやめた』ことを意味していると考えるからである。この言葉を多用する人に限って、何事も【他人任せ】な印象が強かった。そして、「私はそんな人間になりたい訳じゃない!!」と初めて真剣に思った瞬間でもある。その後の私は、この言葉を使わないでも乗り越えるための術を身に付け始めたのである。結果私は、【やりたいことを叶え続けるための限界知らずな人生】の方が、確実に生きやすい!と思うようになり、今を幸せに生きてると胸を張って言える。

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