見出し画像

あなたへの祈り ~ローマ

 世界最小の独立国家ヴァチカン。国土全体が世界遺産に指定され、カトリックの総本山であるサン・ピエトロ大聖堂や、歴史的な美術の巨匠の作品が数多く展示されるヴァチカン美術館などがある。小さいながらも世界的に重要な意味を持つ国だ。
 サン・ピエトロ大聖堂の正面にはサン・ピエトロ広場が広がっていた。大聖堂へと続く玄関口でもあり、直径は240メートルにも及ぶ。
 広場中央のオベリスクを円形に囲むように回廊があり、284本のドリス式円柱によって支えられていた。回廊の上には140もの――荘厳な、カトリックの聖人像が並んでいる。
「壮観だね」
 広場を囲むように立ち、訪れる人々を見下ろしている彼らの姿には、しずかな迫力があった。大聖堂に入らずして、すでに神聖な気持ちになるのだ。
「神を信じてはいない私でも…こういうものを見ていると、信仰心の重みを感じますね」
 今にも衣擦れの音を立てそうなピエタ像、教皇の祭壇を覆う、ブロンズの大天蓋(バルダッキーノ)を順繰りに見てまわる。聖堂の最奥部、後陣と呼ばれる最も神聖な場所に置かれた司教座の前で私たちは立ち止まった。
 金と銅の、天使や聖人の彫刻像に守られた、幾筋もの光を背にある司教座。
 琥珀色の光を浴びるミケーレの横顔が敬虔なものに見えて、私は少し彼を見つめていた。
「何か祈ってたの?」
「いいえ…少しばかり祈っただけで願いが叶うならば、とうに天下泰平ですからね」
「ううん…まあ、そうだろうね」
「ただ、何かの縁で私がこのような場所へ来たのです。彼らに何かを語りかけるのだとしたら…祈りというよりは、恩赦の申請だと思いまして」
「恩赦?」
「都を…私から奪わぬように」
 ミケーレは視線を司教座へ戻した。
「私には、都がいればいい。安寧や成功や…人々が彼らに求めるものは、私は何も要らない。代わりに何を裁きとして奪っても、どんな償いを私に課しても、都だけは取り上げないでほしい。都からは、何も奪わないでほしいと」
 十字を切るような横顔で見上げる。
「もしそうするつもりなら…それが罰であったとしても、私は彼らに立ち向かう」
 私はつないだ指に力を込めた。
「…神様にけんか売ってどうするの?」
「だから言ったのですよ。私は都のためなら…何とでも戦う」
 聖堂内はしずかに明るい。
「それが誰にとっての神であってもです。都」
 神様に宣戦布告するなんて、いかにもミケーレらしかった。
「私も…もしどうあってもミケーレとは結ばれないなら、ミケーレ以外の人と結ばれなければならないなら、命なんかいらないな」
 ねえミケーレ、私たちはいつから生きること≦愛することになってしまったんだろう。
「誰からも祝福されなくたって…私たちは互いに祝福し合えるから」
「…どんなことがあってもですか?」
 私は頷く代わりに口許を緩める。
「何を犠牲にしてもしなければいけない使命ってあるでしょう? 私には今まで選べる使命がなかった。自分が犯した罪を償わなければならなかったから。でもあなたに逢って、初めて自分の気持ちで、100パーセント自分の意志でここにいる理由を決めることができた。…私の使命はあなたのそばで、あなたを幸せにすること」
 私の手はあなたに触れるために、体はあなたに抱きしめてもらうために、頭はあなたのことを考えるために、心はあなたを想うためにあるから。
「だから私は、何も怖くないの」
 私はいつでも、あなたの必要なものでありたい。
 風邪のときの薬とか、初めての場所に来たときの地図とか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?