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春の闇

※「フィレンツェに降る雨」( https://note.mu/m_medium/n/n9486988c6b36 )のミケーレver.です。

 レンガ色をした数々の屋根に、教会に、聖堂に、街灯に。綿のようにふわふわした小さなかたまりが、ゆっくりとちらつき始める。
 雪と見まごうそれは――しかして桜色をした花びらだった。
 ひとひらふたひら、淡い紅色の雪を満たした篩をかすかに揺すって零す具合だった空は、徐々にその目を粗く、振るう動きを激しくしてゆく。雨粒のごとくしきりに降りだす花びらは、フィレンツェのあちこちを結ぶ石畳に音も無く積もりはじめた。
 しばらくは水中に細かな石がいくつも沈んでゆくように、まっすぐに降り注いでいたそれはやがて風を孕み、空に模様をえがくように乱舞する。見慣れたはずの――しかしこれまで見た事もない華の街の絶佳なる姿が、淡い桜色の光のなかに浮かび上がった。
 私とあなたの、宿る街。
「ああ…」
 都が深いため息をついた。
 春嵐は路地のあちこちに吹き込み、石畳に華色の雫を広げる。華の街を艶やかに濡らし、淡くあまやかな色に染め上げる桜色の雨。
 見下ろすフィレンツェが花盛りに咲き誇る。散る事も枯れる事もないこの恋を、具現化したかのように。
「…すごい…綺麗…」
 その情景に言葉少なに、潤む都の瞳が愛おしい。
 オレンジブラウンの髪は、花明かりで露に濡れたように艶めいていた。白い肌に落ちかかる幾枚もの花びらが、優麗な横顔をいっそう際立たせる。
 見とれるばかりのその横顔。
 その視線の先を追い、止まぬ雨となって花びらの降り続けるフィレンツェをふと見やった横顔に、都の視線を感じて私は彼女を向き直る。
 だめ、ミケーレの番だよ、と花冠をかぶった都はそう言って笑った。
「今度はあなたがフィレンツェを見ていて。私はそのあなたの横顔を…見ていたいから」
 それでも都から目を離すことができずに、私は彼女を見つめ返した。
 弓張りの月影はさやかに、都の長い髪は夜色のヴェイルをまとっている。
 月から滴る雫のひとつひとつが音となって、空に夜想曲を歌うかのようだ。
 能力より性質より容姿より感触より、あなたの纏う空気に恋をする。あなたが都であることに。
(ああ そうか)
 これが恋というものなのだ。自分のなかに在るものなのに、暴れ馬のように手綱を取るのが困難な。
 言葉はいつも情熱に負ける。
 人智では及ばぬこの想いを、どう形容すればよいのだ。
 桜花の薄紅は、夜の方が鮮やかに妖しい。星と同じように、闇に包まれてその色彩を際立たせるのだ。
 ほとんど永久に私は春の闇の、夜の匂いを愛するだろう。
 その確信は私をこのうえなく高揚させ、また不思議に安堵させもする。
 それは無論、都を愛する気持ちにも似ていた。
 本能的に、根源的に、そして――究極的に、私は都を想う。
 春宵のひろげる稠密なインディゴブルーに、フィレンツェ色の花びらは舞い続けている。顔を寄せ、白い瞼に花びら越しに口づけた。
 春の街にくるまれて、一緒に夢を見よう。

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