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フィレンツェに降る花

※ミケーレはちょっとしたイリュージョン的なものが使える魔術師みたいな設定です。ミケーレ視点の「春の闇」( https://note.mu/m_medium/n/n5fc720fe21d6 )もあります♪

 春の闇は暗幕を下ろしたように深く、そのなかに鼓動を孕んでいる。
 温かい夜の中でひやりとした風に吹かれると、無性な高揚で心が躍る。どこか遠くへ、信じられないくらい美しい場所へ運んで行ってくれそうで。
 それはミケーレといるときの気持ちと似ていた。
 カンツォーネに、郷愁を感じるのはなぜだろう。
 私にとってイタリアは、既に懐かしいものになりつつある。
 私が恋した、花の都フィレンツェ。
 アルノ川の水面に浮かぶ街灯の光が、ろうそくの灯のように、あるいは星の瞬きのように、きらきらと揺らめいていた。ヴェッキオ橋を渡り、ウフィツィ美術館につながるヴァザーリの回廊を経由して時計塔のあるヴェッキオ宮殿の前を通る。
 その途中で、目の前にふわりと薄い、紙吹雪のようなものが舞い降りて来た。
「あれ、雪? もうあったかいのに…」
 しかし見上げる空には金色の満月のほか、遠くに千切れ雲が流れるばかりだ。ちらちらと空から降りてくる、ほの明るい光のかけらに手を差し出す。
 てのひらに受けた雪は溶けることはなく――雪よりもっとあまい色をしていた。
「桜…?」
 たしかにそれは花びらだった。しっとりしたかるさも、ほのかに漂う香りも。
「あ――」
 再び見上げると、ためらいがちに降っていた花びらは群舞を踊るように私たちの上に舞い始めていた。満月の夜空から、満開の桜の樹の下にいるようなピンク色の雨。私たちのいる高さを通り過ぎ、春の空気を孕んでゆっくりと街に降りていく。
「ミケーレ、これ…」
 手のひらの花びらをさしだす私に、ミケーレは冷艶に微笑みかける。
「桜はお好きですか?」
「これ…あなたが…?」
 私を見つめる眸は、春の満月と同じ金色。
「うん…すごい…」
 せっかくですから。私を抱き上げ、ミケーレは花の中を飛翔する。色づく街を見上げた。肩や腕にふれた花びらが風に舞い、華の街に降り注いでゆく。
 月光の薄いヴェイルを広げた春の明るく済んだ夜空から、降り注ぐしっとりと甘い色の花びら。花嵐のなか、ミケーレの姿が逆光気味に照らし出される。
 春愁の闇にうつろう、つめたくかわいたその肌骨。
 花弁に濡れる頬に口づけた。かぐわしい生花の香りのする風が、私たちの髪を彩るように撫でていく。
 あたたかな夜気に包まれる肌を優しく打つ桜花の、春をたっぷりと含んだつややかな感触。
 五感すべてに美しい、フィレンツェの春景。
 今も時を告げる鐘を鳴らし続ける、ジョットの鐘楼のてっぺんに軽やかに降り立った。
「怖いですか?」
「だ…大丈夫だよ」
 そっと私をなだらかな斜面の上に下ろす。
「ここもちゃんと赤レンガなんだね」
「私たちのような者が見ても違和感のないように、でしょうね」
 鳥の目線だ。まさに鳥瞰。身を乗り出すと広場の石畳や眼下の赤い屋根のうえに、その甘い色が少しずつ積もっていくのが見えた。すぐそばに見える大聖堂の、紅花色のドーム。
「都」
 鐘楼のうえの赤煉瓦にも、花びらが積もりはじめていた。甘くやわらかな、春の結晶。
「この街はあなたの髪と同じ色だ」
 優しい涙のように、次々と降りてきては頬にふれる花びら。
「もしあなたが私と同じ黒い髪を持っていたら、私はその色を好きになっていたのだろうな。私が緋色を好きなのは、それがあなたに属するものだからだ。私の好意(favore)はあなたを発祥とする。私の恋(amore)はあなただ、都」
 あなたの低い囁きが、鼓膜にそっとキスをくれる。
「だから私は…フィレンツェが好きなのだ」
 満月よりも鋭く、つよい輝きを放つ双眸。
 桜の花びらよりもあなたに酔ってしまう私は――その眸に見つめられただけで、芯から奪われてしまう。
 大降りの花のなか、プラチナの月光を浴びた黒髪の青年は、春宵に鮮やかな笑みをのせた。

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