花の街の魔法使い
窓を開けると、部屋中を春が満たした。
風をいっぱいに吸いこんだカーテンは帆のように満足げに膨らむ。その向こうに開けるのは花びらが舞い込んできそうな青(アズーロ)。
「いい天気だね」
身を乗り出す都のとなりにミケーレがやってきた。
「こういうのを瞳瞳と言うのでしょうね。あなたの瞳に確かに似ています」
フィレンツェの空を見上げ、眩しそうに金色の眸を細める。目の覚めるブルーの空全体が、そのうえからシャンパンを薄くまいたように白金の光を放っていた。挑発するように、都はきゅっと微笑む。
「聞かなかったことにする。あなたは私を甘やかすことしか言わないから」
室内にいるのにふたりのまわりの空気は花めき、柔らかかった。春の陽気に染められて、壁紙がパステルカラーに模様替えされたかのように。
「心外ですね」
当然だ。可愛いあなたをこの私が、傷つけたりなどするわけがない。
あでやかなこの季節にふさわしく、花綵でからめるように。
もっと狡猾に抜かりなく、優しくあなたを捕えよう。
――私から逃げられなくなるように。私なしではいられなくなるように。
そうして春が街をそうするように、愛の言葉でその頬を染めたい。
グラスに注いだミネラーレに、金箔を浮かべたような光の粒子が漂う。まばゆい春の光ごとつめたい水を飲み干し、さっそく散策の支度に取りかかった。
空の蒼は澄みきっている。
フィレンツェ最古の橋、ポンテ・ヴェッキオで都は足をとめた。
漣の立つ鏡面となったアルノ川には、中世の趣を残す街並みが映り込んでいる。そのうえに玲々とひろがるフィレンツェの、華やかな蒼穹。
「あなたといるとね、空がすごく広く感じるの」
石造りの橋に手をのせ、光風にオレンジブラウンの猫っ毛をさらさらと揺らす横顔。
―春は都のような季節だ。
春空の下に鮮やかに咲く黄昏色に目を奪われながら思った。パステルブルーの空に照らされて、白く映える石畳を歩く。
「都」
名前を呼ぶたび、私の胸にあなたが華開く。
どんな華より可憐に、鮮やかに。
「あ…」
細い肩、華奢な指、やわらかな髪。
愛すべき恋人に相応しい花びらのシャワーを、私はそのうえに降らせた。
「綺麗…」
紅や紫の花冠、あるいは白や黄の花弁、絞りの色彩でその肌を飾るプリムローズの春雨。
海原に描かれる澪のように、私と都の通った道に花びらの足跡がつく。
繋いだ手の上にも五彩の洗礼を受けた。ホワイトゴールドの光がフィレンツェに溶け込み、街全体を燦々と輝かせている。
柔らかな花びらに降り込められ、春の色に濡れながら頬や髪に、指や瞳でキスを落とし合った。
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