できない背景を想像する
「なんでできないの」
この一言、言う必要があるのかな。前からずっと思ってたけど。
だいたいは、親が子供に。が多いのかな。
「なんでできないの」「なんでそんなこともできないの」
できないこと、結果だけを責めるのってすごく酷じゃないかな。
自分にとっては「そんなこと」でも
その人にとっては「そんなことじゃない」ってことある。
幼いころ言われたことがあった。なんでできないの。多分1回だけ。
たったその1回を、子供と接してるときにたまあに思い出す。
「なんでできないの」って言われて、はいがんばります!とはならないし、落ち込む。できないことにイライラされてもなあぁ…って、しょんぼりした記憶がある。
「なにくそ!いまに見てろ!」って思う人もいるかもしれないけど、そうじゃない人は逆効果で傷になる。
「じゃあ、どうすればできるようになると思う?」
目標に向かってどうやってたどり着けるかを考える。ってことも場合によっては大切かもしれない。
しかし、最近気づいたのは
そもそも本人がそれをできるようになりたいって思ってないケースがある
ということ。
やる気がないとか、そんなふわっとしたことじゃなくて、本人が自覚していないくらいの無意識の領域のこと。
「頭」ではできるようになりたいって「思っている」もしくは、「思い込んでいる」
でも、本当の本当のところでは、できるようになりたいと「思っていない」
本当はやりたくないけど「やらなきゃいけない」と、義務みたくなってることは、あまり伸びない。
書いててややこしくなってきたけど。
本人が自覚していないだけで、できるようになりたと思っていないケースもあるということ。
あと、何かストレスや心配事があって、集中して事に取り組めない場合もある。
例えば夫婦がいつも喧嘩してるとする。
そのやりとりを子供がいつも見ている。
「別れちゃったらどおしよう…」
「どっか行ってしまったらどおしよう…」
そんな心配事を抱えているなかで、
「国語できないから勉強がんばろうっと!」なんて、難しいのではないか。
友達とうまくいっていない、学校行きたくないとかもそう。
そっちに心がいってしまって、やらなきゃいけないって思ってることに集中して取り組めない。
環境って大きい。
目の前のことに集中!って切り替えれる人もいるけど、切り替えれない人もいる。これには訓練が必要。
そうやって色んなことを想像すると
「なんでできないの」って結果だけを責めるようなことはしたくないな。
言ってる側の願いや期待も多いような気がする。
「できるようになってほしい」
その期待って、ときに重たい。
自分に対してもなんでできないのよって言いたくない。私はよく自分に言ってしまってたから、なんにもいいことにはならなかった!ただ気持ちが落ち込むだけ。マイナス。
なんでこれ、できないのかな〜って冷静になって考えてみると
そもそもやりたくないとか
やるのが怖いとか
やり方がよくないとか
他にやりたいことがあって気持ちがそっちに向いてるとか
実は やる必要がないことだった
とか
結構色々ある。
できない「背景」を想像すると
結果だけを見てた視点が変わって、その人自身を見る際に奥行きが出る。
あと、できない理由に
教え方がよくなかった ってこともあった。
これは教える側になったときに学んだこと。別記事で書こうかな。
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