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ボロボロうさぎのひとりごと

舞台は東京、銀座の一等地。この街に並び立つ百貨店・ブティック・美容院・レストラン。数々の店が特別な価値を持って軒を連ねていた。大通りの裏側に、古ぼけたおもちゃ屋がある。その場所の佇まいは、ぎらぎらと輝いたラグジュアリーな街並みに身を隠すように、レンガ造りの建物にツタの葉を絡ませていた。

この店の店主は、今朝もショーウィンドウの掃除をしている。このウィンドウを見る子どもたちに、笑顔を贈ることができるように。都会の雑踏を歩く大人たちに、つかの間の癒しやときめきを与えられるように。
―――不採算な店が、1日でも長く存続できるように。

「ふう……」
現店主が父親から店を引き継いで、約30年。近頃の気温の低さは持病の腰痛に響いた。それでも、早起きをして掃除をして、従業員の全員に紅茶を煎れて一日をはじめる。言葉や心を持たない、ちいさな相棒とともに。

ショーウィンドウの向こう側を飾るのは、色とりどりのぬいぐるみたち。量販店では手に入らない女の子向けのキッチン。こども騙しではなく本物仕様の木琴。実際のサイレン音が鳴る救急車のミニカー。銀座、という土地柄、近隣住民だけではなく、観光客が手土産を探して立ち寄ることもある。従業員全員がこだわりのある珍しいものをそろえるようにと努力していた。

……その品ぞろえの中で、一点モノのぬいぐるみがひとつ、棚の中心に置かれている。小豆色のうさぎ。大きさは20cmほどで、ショーウィンドウの中では一番小ぶりだ。くるみボタンでできた瞳は、日に焼けて色褪せている。一見古めかしく見えるが、その色合いこそが彼女の味であった。
そして、彼女は店主の父親が幼き頃の店主にはじめて与えたおもちゃである。長い時代を過ごすと、やはり地味に見えても仕方ない。店頭の中央に新商品を設置するおもちゃ屋が大半だろう。しかし、店主にとって彼女こそが「お客さまにやすらぎをあたえる」象徴である。今日もうさぎを店先の中心に座らせると、ドアノブにかかった看板を『オープン』に、ひっくり返した。

★★★

「あのお店の列の半分の人数がうちに来てくれる……なんてことはないか」
店主は昼食後の眠気に襲われながらぼやいた。通りの向こう側では老若男女、数々の人が有名な紅茶ケーキを求めて列をなしている。飲食店に比べおもちゃ屋はやはりこどもと家族が立ち寄ることがポピュラーであり、ふらっとひとりで立ち寄る人物は少ない。

「うええっ、ママ、ママーっ」
店主がうとうとしていると、数え年で5つほどの少年が、曲がり角から飛び出す。母の小柄な身体を引きずるようなわんぱくさで走り抜けて店先にたどり着いた。よし、あの子はうちのおもちゃを欲しがっているぞ、と、店主は心の中でガッツを掲げた。

「大騒ぎしてごめんなさい! おもちゃ、よく見たいの?」
男の子は母親のその質問にこくり、と、首を縦に振った。店主は男の子の視点に目線を落とし、ふわりと微笑んだ。大きな黒目が、ショーウィンドウの隅から隅を眺めている。数秒間の沈黙が流れた後、小さな人差し指は中央のうさぎを指した。

「ごめんね、坊や。この子は売り物じゃないんだ」
「ふえ、ちがう、ちがうよおっ」
店主が落ち着いた言葉で事実を語った。ぴかぴかと輝く瞳は、じわりと涙の色を映し始める。母親が宥めるようつむじを撫でると、少年の小さな唇はこう訴えた。

「ないてるの……」
「え? どうしたのかな?」
「うさちゃんが、ないてるの……」
うさぎがぼろぼろに見えるのは、単に年季が入っているからではなかった。少年が話すことが事実かもしれない、と、店主の心臓へむなしさが貫く。同時に、こんなに小さなぬいぐるみの気持ちを考えてくれる少年のやさしさに心を打たれた。店主は涙を浮かべる少年にこう提案した。

「この子を抱っこしてみますか」
「はい。買えないことは私が説得しますから……お願いできますか?」
店主は窓の鍵を外し、しわがれた手でうさぎを取り出した。ばい菌がつかないようにと、ウェットテッシュでよく拭くと、少年に手渡す。紅葉のような小さなその手は、うさぎを包み込むように抱きしめる。やわらかい頬の感触に、ふんわりと綿が沈んだ。

「ママ、ちょっと持ってて」
「連れて帰っちゃだめ! お店のひとに返しなさいよ!」
あまりにも気に入って頬ずりをするものだから、少年がうさぎをリュックの中に入れて誘拐したかったのだろう。しかし、母親と店主の予想ははずれたようだ。少年はうさぎを母親の右手に預け、リュックの中を漁るとトランプの柄が入った赤いリボンを取り出した。

「うさちゃんにあげたいの?」
「ぼく、うさちゃんにかわいくつけてあげるかな?」
「うん!」
「何から何まで、ありがとうございます」
こんなにやさしく抱きしめてくれる少年なら、うさぎは首を締められているとは感じないだろう。ささやかなおしゃれをするような気持ちになるんじゃないのかなあ、と店主は夢想した。ぬいぐるみに心など、宿らないはずなのに。

「こう?」
「ううん、もっとふんわりさせるときれいだよ」
あけ放たれたリュックから、ちらりと母親のリュックの中身が覗く。少年のおかしや、水筒。そして、写真集や、大量のラフ画。メジャー。この近くのブティックで勤めているのだろう、と、店主は予想していると、母親から控えめな自己紹介があった。

「実はこの近くでお店をやっていて、新作のお洋服に使ったリボンが余ったので差し上げます」
「この色合いが素敵ですよ。うさぎもきっと喜んでいます」
店主がほほ笑みながら、うさぎの気持ちを代弁したように母親に伝えた。彼女の洋服は自ら作ったものなのだろうか、ゴシックな色合いがおもちゃ屋のレンガ色によく映える。店主から見ても、母親はとてもセンスがよく、おしゃれ。そして、付加価値ばかり求めるひとばかりの街で、息子とひたむきにくらすけなげな母親がいることに驚いた。

「そう言っていただけるとうれしいです! 私のお店にも遊びに来てください」
「ええ、もちろん」
近年では無くなりかけていた、ささやかな近所付き合いが3人をあたたかな気持ちにさせた。すっかり気分を良くした店主は、処分に困っていたミニカーを少年にプレゼントする。うさちゃんとプレゼント交換した、という名目で伝えると、ふたりはやわらかな表情を見せた。

「うさちゃん、ばいばい!」
少年はうさぎを名残惜しそうに手放した。だけど、その笑顔は青空のようにからりと晴れている。ふたつの影は店主に手を振り、母親と肩を並べて駅がある方角へと歩いていった。店主である自分のみならず、こんな何気ない住民との交流の時間が、うさぎの心を解き放ってくれるひとときだと信じて。店主は明日も彼女を店の中心に置くことに決めた。

うさぎは何も言わず、笑ったままだった。

★★★

「この子、本当に邪魔だよねえ」
「こんなぼろぼろで店先に出せてることがおかしいよね」
店主が買出しに行っている時に、事件は起こった。午後から出勤してきた店員が、うさぎの首根っこを掴みながら不満を語っている。

「俺たちのお気に入りのおもちゃ、まだ店頭に出せてないよ」
「きっとあれの方が売れるだろうに、本当におかしいよね。あの店長」
「今時流行りのパワハラってやつ? こんなボロうさぎの洗濯なんてやめさせてーって」
「うさちゃん、自分のおしりぐらい自分で拭きなさいよって」
小さな身体を冷たい水がなみなみと張った洗面器の奥底に沈める。うさぎは息苦しさに悶えた。だけど、苦しみを言葉にすることはできなかった。あの少年と母親のやさしい手のぬくもりが恋しくて、もういっそ生まれ変わりたいとさえ思った。

「ぬいぐるみって、本当は乾燥機に入れちゃダメなんだよね」
「そうだけど……うっかりに見せかけて、やってみるー?」
「ネットないからさあ、そのままぶち込んじゃえ!」
……身体中が火傷しそうで痛い。このままだと目が剥がれちゃう。もう、剥がれたほうがいいか。こんな奴の顔を見る目なんて、ないほうがいい。もう形もなくなって、ぼろぼろになって命を絶ってしまいたい。

がこん、がこん。と回る乾燥機のドラム中で、うさぎは考える。もし生まれ変わるのなら、ひとの言葉が聞こえなくなってほしい。ただにこにこと笑って、誰かに愛されていたかった。やさしいひとの手の中で、抱きしめられたかった。

この店の看板として選ばれたこと自体が呪いなんだろう。おもちゃに心が宿るはずがないということはわかるけれど、せめて汚い言葉を投げかけたり、けなしたり。店員がそういったことをしなければ、この空間に虚しさが漂うことはないはずなのに。

うさぎは灼熱の中で、意識を遠のかせた。

★★★

「探してたボールペン、なかったねえ」
「渋谷にあるっしょ! まだお昼だし、このまま行く?」
「賛成!とりあえず駅まで歩くかあ」
とある昼間、3人の女学生が談笑しながら街を歩いていた。文房具や洋服を探しに銀座の町を訪れたようだ。店先の落ち葉を掃除していた店主は、楽しそうなその声に振り返った。

「あれ、こんなところおもちゃ屋さんがあったの?」
「すっごいいい雰囲気……」
「あのぬいぐるみ、レトロでいいよねえ」
かしまし娘とは、この子達のことを指す言葉であろう。大きな声で騒ぎ続けているけど、その足取りは慣れたものでは無さそうだ。銀座の街の中で変わった佇まいのおもちゃ屋の前で立ち止まった。

「私たちの制服のリボンの色にそっくり!珍しいねえ」
「ちょっとだっこさせてもらっちゃダメかな?」
「あの方、店員さん? 聞いてみようよ」
あの子たちの世代にはこの街はまだ早い。きっと若者の流行の発信地である池袋や渋谷のほうが楽しいだろう。声をかけることをあきらめるた店主がうつむいていると、彼女らは自らチェックのスカートをなびかせて店先に立ち寄った。

「すみません。このうさぎちゃんと私のぬいちゃんで一緒に写真取りたいんですけど」
「珍しい色ですね。母が洋裁をやっているものですから、詳しく見てみたいんです」
「棚から出してもらってもいいですか?」
金髪の少女の通学カバンからは、ミニチュアシュナウザーとマルチーズの小ぶりなぬいぐるみが飛び出してきた。つやつやの毛並みで、よく手入れされているようだ。店主はきっとその2匹がうさぎの友達になってくれるかと思い、要望を聞き入れた。

「いいですよ! シャッターを切ります」
彼女たちは仲良く肩を並べると、店先ではじけるような笑顔で笑う。きっと自分が映し出しているのは青春の1ページだ。自分が学生の頃にはスマートフォンも、高層ビルもなかったけれど、どうかこの一瞬がかけがえのない思い出のひとつになるように微笑みかけた。

「この子、ちょっと前に地面に落ちてしまったものですから。汚れてませんか?」
「何言ってんの! この子、こんなにかわいいのに! ほら、ぎゅーっ」
「最近のぬいぐるみに比べても、関節が良く動いて、いろんなポーズができるんですね」
写真を取り終わると、店主が懸念していたことを少女達に質問する。その中のひとりがうさぎの手やら足やらをリズムよく動かして遊んでいる。そのうち三人そろって歌を口ずさみながら一緒に踊りだすものだから、いい大人の店長も思わず笑ってしまった。

「この子はこのお店の中で一番古い子なんですよ」
「わたし、骨董品のアクセサリーがすごく好きなんです。きっとこの子も長い時間を旅してきたんですね。だからこんなにも惹きつける魅力がある」
「ほかのお店ではなかなかで見かけないやさしい色合いがとてもプリチーだよね!」
金髪の子が持っているぬいぐるみは、ここ近年のデザインに見える。こうして並べて見ると、うさぎと抱き合わせてみても不思議と世代の差は感じられなかった。

「ううん? でもこの子、目のボタンが取れそうだけど……」
「あ、お母さんからもらったボタンが余っているかも」
「ナイスだね。もし店長さんとこの子が嫌でなければ、この瞳にしてみるのもどうですか?」
バレッタをつけった少女は、ポケットの中からふたつのボタンを取り出した。それは新緑のような深緑色をしていて、うさぎの小豆色の布地にしっくりと当てはまった。他にも店主の机の隣の引き出しの中に候補はいくつかあるが、不思議な縁を感じてそのボタンを受け取ることにした。瞳がしっくり来ないのなら、新しい洋服を作ってあげるのもいい。

「いつか私たちが離れ離れになっても、またこの子に会いたくなる気がするんです」
「そうだよね。こうしてぎゅうと抱きしめると、いっぱいこの子の想いが伝わってくる」
「いつかその日が来てもまた会いに行こうね。この子はずっとここにいるんですか?」
店主は気が付きはじめていた。うさぎは店内の中でぞんざいな扱いをうけているかもしれないことに。ところが、店先を訪れたひとびとは彼女に向かって笑顔で手を振ったり、手渡すとぎゅうと抱きしめてくれたり。

「きっとずっとここにいます。このお店を忘れず、また皆さんで訪れてください」
店主は日ごろの労働で疲弊し、丸まっていた背筋をぴしっと伸ばした。たくさん愛を与えてもらうことが、彼女にとっての存在価値であり、自分自身が店を続けているポリシーそのものであることを再確認した。

「じゃあね、店長さん―!」
幼少期の頃から、店先に訪れるひとびとの楽しそうな声や。子どもたちが宝探しをする姿。両親や祖父母が贈り物を選ぶような、思い出の場所になってほしいという希望。ささやかな願いで、おもちゃ屋にとってはごく当たり前なことかもしない。

うさぎは何も言わず、笑ったままだった。

★★★

「ちょっと、やめてあげてよー! うさぎちゃん、かわいそう!」
「だってただ捨てるだけじゃあ、面白くないじゃんよ」
今日も殴られ、蹴られ、罵倒される。どんなに店を訪れた方や店主にやさしい言葉を贈られても、この時間から逃げることはできない。彼女にとってこの店は天国であり、地獄だった。―――辛いも痛いも苦しいも、うさぎの日常のひとつとして成立していた。

「なんで俺が壊れたおもちゃを買わなきゃいけないんだよ」
「きっといいことがないのは、この子がいるからでしょ!」
「ははっ、早く死んでくれないかな」
生きているだけで死を願われる。そんな存在は私と死刑囚だけなのだろう。生きていてもしょうがないのなら、もういっそ殺してくれとさえ思った。店員の乱暴な手つきで壁に身体を押し付けられ、綿が飛び出そうになるぐらいに潰される。

私が何をしたのだろうか?彼らと同じように傷つけることをしたのだろうか?仮に何か不利益なことをしていたとしても、ぬいぐるみはただ笑ってあの場所に座ることしかできない。

言葉を持たない、そして心を持たないように見えるから、こうしていじめられるのだ。彼らの汚れた魂の仕組みなど、うさぎは考えたくもなかったのに。

「ねえ、この空箱の中に入れてみようよ」
「こうしたほうが写真映えするかなって思って」
「店長もびっくりするよねえ。それよりも金返せって感じ」
自分の存在をケラケラと嘲笑う声を、うさぎの耳は忘れなかった。そもそも、粗末な取り扱いをして売り物を傷つけたのはあなたの責任じゃないの? ぶつけたい言葉は、口の中に入った泥の中に溶けていく。

「あははっ、棺桶みたいじゃん!」
「おもしろすぎるから、SNSにあげちゃおー!」
うさぎの身体はお菓子の空箱の中に鎮められる。うさぎの身体と箱との隙間に、腐ったドライフラワーや賞味期限のお菓子を添えられた。ぬいぐるみを処分するときは白い紙袋や箱に入れ、飴を添えることがルールだったが、それを真似たのだろう。

あなたたちが子どものころからかわいがっているぬいぐるみがこんな仕打ちをされたらどう思うの?うさぎの怒りを絡ませた激情は、箱の蓋と一緒にしまわれる。彼らのひん曲がった感性を飽きれながら受け入れるしか道は残されていない。

うさぎは何も言わず、笑うことしかできなかった。

★★★

「半世紀ほどシスターをやってきたけど、なかなか差別も戦争も病もなくならないわねえ」
「そうよねえ……世の中は常に理不尽ばかり」
「今日も協会に自殺志願者が何人来たのやら……」
雨上がりの店先を通りかかったのは、またもや女性3人だった。彼女たちは背中より長い修道着を身にまとっている。ひとびとに生きる力を与える職業はやはり壮絶なようで、全員が疲弊した表情を浮かべながら歩いていた。店主はその姿をぼうっと眺めながら、大変なのは自分だけではないと言い聞かせる。

「おもちゃ屋さん、なんだか懐かしいわ」
「今のこども達はこんなに可愛いおもちゃで遊んでいるのね」
「どれもなかなか高そうね、木も布も本物でできている」
店先に立ち寄った彼女たちは、簡単にガラスに触れない。きっとこのショーウィンドウをあけることはないと、店主は一歩後ずさってしまう。そして何より、彼女たち全員には『ひとを救う仕事をしている』という気高さがにじみ出ているからだ。

「うさちゃんがいるわねえ、私が若い時に持っていたぬいぐるみに似ている」
「私も持っていたわ!私もこんな生地の……今ではなかなか見かけないわよね」
「不思議なうさぎちゃんね。見てるとなんだかやさしい気持ちになれるのよ」
話の内容を小耳に挟むと、やはり少女心は半世紀を超えても変わるものではないようだ。きっと彼女達にも。先日店先を訪れた女学生のように目をきらきらさせて、かわいいものを眺めていた時代がある。うさぎを気に入ってくれたこともあり、店主は謙遜をしながらこう話しかけた。

「この子、なかなか懐かしいでしょう?でも古くて、地味で」
「……古くなんかないでしょ!? こんなにやさしい気持ちをくれるこの子に謝って頂戴」
「私の不用意で申し訳ありません。……でも、みなさんはわかってくださるんですね」
ベリーショートのシスターの気に障ってしまったようだった。だけれど、その横顔は一目でさまざまなひとに愛を与えていることがわかるような、凛とした大人の表情だった。さっきのは冗談よ、と、言わんばかりのほほ笑みが、店主の焦る心を溶きほぐした。

「ふふふ。こんなにかわいい子が銀座の街にいるなんてね。この子、教会に譲っていただけませんか?訪れる子どもたちが暇をしていて」
ふわふわとした髪型のシスターが、うさぎを修道院に連れ帰ることを提案する。店主の知り合いの中でも、サンプルとして展示してあったおもちゃの一部が壊れたり、随分型落ちをした時には、修繕をした後に幼稚園や福祉の施設に送る店はいくつもあった。

「この子がいたら、もう少し私も頑張れる気がするわ」
つややかな黒髪をまとめたシスターは、半世紀以上この仕事を続けているようだ。老いを感じさせないはつらつとした笑顔に、きっと多くの方が励まされているだろう。このような素敵たちな女性に大切にされるのも、うさぎにとって悪くはないはずだ。

3人の天使が、理不尽に巻きこまれるうさぎを迎えに来たように見える。いや、彼女に理不尽を押し付けているのは自分自身のプライドであるのだろうか。何より、提案をしてきたシスターのあたたかい声はうさぎに安心を与えてくれそうで。前向きに検討しますから、ご連絡先を――――。と言いかけた矢先。

「今、教会にはぬいぐるみはおけない決まりだった気がするけど」
「そうだったわ。風邪対策の影響で……うっかりとんでもない提案をしてしまった!」
「傍に置いておきたいけれど、子どもたちを不幸せにしてしまったらこの子自身が悲しむよね」
3人は店先でがっかりと肩を落としていた。ひとに尽くす聖職者でも、休憩中は人間に戻る。けれどもその言葉たちからはぬくもりがこぼれていた。ほんのささやかな一瞬だけれども、自分とは別の世界を生きる方々との交流の機会を持つことができた。

「そう言っていただいて、とてもとても光栄です」
「きっと素敵なみなさんに出会えて、うさぎも心から喜んでいます」
「気前のいい店主さんのもとなら、きっとこの子も安心しているでしょう」
「今度、協会には黙って甥のおもちゃを買いに来ますからね」
3人そろって店主に深々とおじぎをし、靴音を鳴らして去っていった。
ここ最近、子どもやお年寄りの間で新種の風邪が流行っているそうだ。そういった因子が重なり、幼稚園などでもおもちゃを買う機会が減っている。実際そういった場所からの発注は今年度に入ってから数える程度しかない。そんな時代とは裏腹に、うさぎがこうした大人の女性たちを癒す力を持っていることを思い知らされた。

うさぎは何も言わず、笑ったままだった。

★★★

ある冬の日、ひとりの男が店先を訪れた。閉店時間での約束なのに、インターホンすら鳴らさず力強く玄関を叩く音に、店主は驚いて椅子から転げ落ちてしまいそうになった。

数年ぶりに会う彼は、身なりもよく清潔感があり、その落ち着いた口調も変わらなかった。だか、そのまなざしは変わらず邪悪だった。店主は男とただ挨拶を交わしただけなのに、背筋を凍り付きそうになった。店主は彼を出迎えると、踵を返してキッチンに戻った。
頭を冷やすために紅茶を煎れ、お盆にクッキーを載せた。子どもが多く訪れる場所なのに、手さえ洗わずわが物顔でソファに座り込んでいたことを思い出す。……おしぼりを添える。

「どうされましたか? 急に手紙なんてお送りいただいて」
「店主さんがどうされているか心配していてね。お元気ですか?」
「一時期は腰痛がひどく、手術も考えましたが。薬を飲んで小マシになりましたよ」
「それはよかったですね」
彼の声色はまるで聖職者のように穏やかだった。手紙に書かれた内容は大げさで。きっと過去の思い出話ばかりで、この店の存続のことなんて話題になることはないだろう。しばらくの間はふたりで紅茶を啜りながら、昔話に花を咲かせていた。

「玄関に古ぼけたうさぎが置いてあるでしょう。あの子はなぜ置いてあるのですか」
「親父がはじめて私に作ってくれたぬいぐるみなんです。店の歴史を物語れるようにーー」
「あれを見て子供やお客さんが寄ってくると思いますか? きっと悪さしかしませんよ」
貴様はうさぎの何を知っている。そして私のお店に対する愛情や、この店を訪れるひとびとの笑顔を罵っているかのような口調で煽っていた。彼の印象はやはり温厚であるが、使う言葉のひとつひとつが冷酷そのものだった。目に見え、耳で聞こえる違和感に吐き気すら催した。

「このお店を救うのはあたらしいぬいぐるみ達でしょう」
「私のおすすめのメーカーを紹介するのでご検討してください」
男が玩具メーカーのカタログを机に叩きつけるように置いた。やはり、彼は無礼者である。店主は耐えがたい怒りを拳にしてテーブルの下で握った。ぬいぐるみに心が宿ってないことはお互い知っていることだ。詰め込んでいるのは知識ばかりで、非道な人間がおもちゃ屋を名乗っていることにどうしようもなく腹が立って仕方なかった。

「もう今日は遅いですし、お引き取りください」
人権を傷つける覚悟の強い言葉でねじ伏せてしまいたかった。しかし、同等の生物には成り下がりたくない。その一言が店主の枯れないプライドだった。男はその言葉を受けて生気が宿らぬ瞳で店主を見つめていた。ーーー睨みつけられている。店主のかつての後輩である男が、一秒でも早くこの店を去ってくれる瞬間を待った。

「うさぎ、もう疲れただろう」
うさぎに罪はないのに、どうしたって敵意を向けてくる人間が湧いてくる。こんなにも店を訪れるひとに笑顔や安らぎを与えているはずなのに。きっとこの子は数奇な運命に疲れてしまったのだろう。

『店先に飾ってあげたい』という想いは、自分の古臭い自尊心のことなんじゃないか?
最初からこうして自分の作業台の脇においてあげればよかった。生き方に迷った時に微笑んでくれる存在であればよかったはずなのに、どうして……。

「雪が止んだころにはまた店を開けて、綿を詰めなおしてあげるからね」
今日、うさぎを気に入ったシスター達から、オーガニックコットンが届いた。『うさぎちゃんの綿に使ってあげてください』という手紙が添えられている。店主は最近何度治してもその身体が縮んで見えることがひそかな悩みだった。シスターたちの愛に感謝しながら、いただいたものを身体に詰めなおすことを計画していた。

机上のスマートフォンが不在着信を通知し、店主の家族から帰り道を心配するメッセージが入る。そうか、もう外に雪が降っているのだろう。店主の家があるのは、この街から60キロ離れた鎌倉のはずれにある。そろそろ店を出ないと、高速道路が通行止めになってしまう。

「おやすみなさい」
店主は家まで連れて帰って、徹夜をして修理をするか悩んだ。自宅の食卓よりも、作業場のほうが場所も確保できる。あと少しだけ待ってもらうことにした。

せめてこんな寒い日に布団をかぶってね、と、彼女を机から持ち出し、ふわりと小さな百合の刺繍が入った厚手のハンカチを被せる。そして最後の悪あがきとしてショーウィンドウに戻し、店主は店を後にした。

★★★

東京の街に雪は降り続く。地下を走り抜けるどぶねずみでさえ、息の根を止めて春を待っているようだ。街のあかりが消えた銀座の街をふらついている影がひとつ。寒さが好きな人間はこの世に存在するわけがなく、影もそのひとり。誰も見ていないことをいいことに、いつもは訪れないおもちゃの前で足を止めている。

店主がかけてくれた布団が温かくて、うさぎはよく眠れそうだった。
だけど、またしてもこのショーウィンドウに座らせられた意味は理解できなかった。

デスクの脇に置かれても、棺桶の中に入れて燃やされることになっても。私は言葉もしゃべれないし、身体も動かすこともできない。あふれるほどの慈愛を注がれながら、命を絶つことへ背中を押される。そんな毎日を繰り返すだけだから。

時間は20時をまわって、うさぎがうつらうつらと首を振っていると。
曇ったガラスを拭く肌色の物陰が見えた。ーーじっと目を凝らすと、それはひとだった。……こんなに寒い日に訪れるなんて、きっと強盗に違いない。きっと奪うのは市場で売れそうなあの子やその子で、こんなにぼろぼろで足がぱっくりと割れた私ではない。

本当は店主にお店の危機を伝えたいのだけど、この小さな手では電話すら掴めない。影が分厚いフードをあげると、赤く、青く、紫色のあざのある顔が覗いた。痛々しい皮膚の表面から、ビー玉のように澄んだ瞳がちらついていた。

うさぎがぼうっとその影を見つめていると、がしゃん、と古いガラスが割れる大きな音が、人気がない銀座の街に響いた。そして、長い手が自分をめがけて伸びてくる。影が百合の刺繍が入ったハンカチをうさぎの顔から外すと、赤子がぬいぐるみにキスをするかのように間近で見つめている。

影がうさぎに注ぐまなざしは悪意ではなく、半世紀生きても見たこともない強さが宿っていた。ああ、このひとはきっとやさしいんだ。このひとが私を連れ出してくれるかもしれない、という期待が、ちいさな胸の中で音を立てた。

「――――こんなにぼろぼろじゃあ、きっと痛いだろう」
みなさんの愛も心地よかった。ふんわりと胸の中に残り続けるぬくもり。自分を励ます言葉。この首に巻かれているリボン、この町をみつめる瞳、少し身軽にしてくれた綿。受け取った贈り物の全てに愛が詰まっていた。だけど、自分の閉じ込めていた気持ちを読み取るような言葉を語りかけてきたのは、影がはじめてだった。

「このままじゃ歩けないでしょう」
「……どこかに行きたい?」
影はショーウィンドウの脇の小さな扉から店内に入り、暗闇を探りながら作業台の電気をつけた。影の手のひらに包まれている間は、うさぎは感情を伝えらえれる気がした。なぜここに生まれた理由がわからないと質問しようとする。息をつく間に、店主がいつも使っている作業台にうさぎの身体を倒した。

「うまく治せるかわからないけれど……」
影はもののひといきで糸を針穴に通した。その手さばきを見ても、店主と肩を並べられるぐらい器用ということがわかる。突然現れた得体の知れない存在に深い傷口を縫い合わされてしまう。これまでさんざんいじめられてきたぬいぐるみとしては警戒をすべきなのに、不思議とからっぽの命を委ねてしまいたいと思った。

「我慢していてね」
ぷす、という音が暗闇の中に響いた。うさぎの皮膚に針先の尖った感覚が走る。影が持て余していたのはかわいらしいプレゼントではなく。生まれながらに持った脳や心に有り余るほどの器用さと才能。何かをつくっては、大人に使い捨てにされてきた。
幾多の傷を受けてきた影にとっては、息苦しいと叫んでいる命にこそ自分の力を届けたい。裁縫をしたのは何年振りだろうか。影の中で猛る思いは、動機として十分だった。

仮止めが終わると、うさぎの首を飾っているリボンがそっと解かれる。そして、ハンカチを小さく折りたたみ、うさぎの両目と顔を覆う。まるで、影はうさぎの目が見えていることを知っているようだ。

「はじっこが見えないっ……」
影は澄んだ瞳をうさぎの顔のすぐそばまで近付ける。壊してしまってはいけない、という緊張の息遣いが聞こえてきた。ただこちらを見ているだけなのに、息の根が止まりそうになった。ぬいぐるみに呼吸など存在しないはずなのに、自分の中に息の根や鼓動、体温があると錯覚した。

皮膚と皮膚を縫い合わされることにはやはり痛みが伴う。うさぎは決死で我慢した。きっとこの痛みを超えたころには、ガラスの向こう側の景色がが見えてくる。そんな気がしたのだ。
うさぎの皮膚にあたたかい手汗が沁み込んでいく。どんな瞬間も手を抜かず、傷口と向き合う姿は必死そのものだった。ふたつの呼吸が重なった時、レジの手前にある鳩時計が丑三つ時を告げた。

「できた、きっと明日には歩けるようになるだろう」
影の口から告げられたことを、うさぎは望んでいたのかどうかわからない。だけれど、この足でどこかを目指せば、この残酷な運命から逃げだすことはできる。自分にやさしさをプレゼントしてくれたみなさんにも会いに行ける。それだけで、鎖のように孤独に縛り付けられた身体から、すっと前向きな気持ちが流れ込んできた気がしたのだ。

うさぎにもし声があるとしたら、ありがとうと伝えたかった。こんな寒い日に、傷んだその手で自分を治してくれたことへの感謝の気持ちが溢れていた。だけどこの夜を超えたら、きっとこのひとも自分のもとから去ってしまうのだろう。

「また会おうね、約束。」
うさぎのすかすかの喉ではうまく声は出せないけど、せつなさを塗りつぶすような言葉を届けられた。指切りの代わりに汗まみれになったその手を忘れないように。傷口は見違えるほどきれいに治った代わりに、深い夜を照らす希望を胸の中に刻みつける。

「バイバイ」
別れの前に、傷だらけの私を見つけてくれた瞳をもう一度見つめたかった。影はそそくさとうさぎに背を向けて、うしろ向きに手を振った。待って、と、呼びかける声が出るはずもない。でも、うさぎは後悔しなかった。その声は届かなくても、きっとまた会える気がしたのだ。

うさぎがひとねむりした後も、あかりの消えた銀座の街に雪は降り続ける。

日々せわしなく動く新幹線。うさぎと同じようにショーウィンドウに飾られた洋服。
百貨店の店頭に並ぶさまざまな宝石、呉服店に並ぶ有名作家が織り込んだ着物。

ひとの想いが込められたものすべてが、音のない世界の中で眠っていた。

★★★

雪解けの朝を迎えると、うさぎはぴょこっと軽快に立ち上がる。あの影が本当に治してくれたんだと、うさぎの心は震えた。そして、店主が使っている作業台を影がきちんと片づけて帰ったことから、悪い人間でないのだろうと言うことがわかった。

昨晩の大雪が嘘のように輝く朝日がいつもよりまぶしかった。動かせるようになった腕で、百合の刺繍の入ったハンカチのはじとはじを合わせる。何を持っていったらいいのかすらもわからないけど、店主のことを忘れないように、はちみつキャンディをひとつぶだけ持っていくことにした。

「もう、行かなくちゃ……」
行くって、どこに? うさぎは生まれてはじめてひとりごとをつぶやいた。
目的地は、素敵な洋服を来たお母さんが働くブティックかもしれない。
女学生の鞄の中に入れば、きっといろんな世界を眺めることができるかもしれない。シスターが切り盛りする教会に行けば、たくさんの子どもやお年寄りに笑顔を与えられるかもしれない。それとも、自分を助けてくれた影のそばか。そのうちひとつかもしれないし、そのすべてをめぐって旅するかもしれない。

「行ってきます」
かごのに入ったはちみつキャンディは、腰を悪くした店主が棚の上から取り出しにくそうにしていたから、レジの脇に置いておくことにした。ほんのささやかな”ありがとう”を伝えるために。作業台の上をしっかり踏みしめると、てくてく、と自分の足音が聞こえた。

「さようなら、店主。」
ただのぬいぐるみを大切にしてくれたことは、痛いほどわかっている。だけど、押しつぶされそうな悲しみから開放されたかった。そして自分にやさしさをくれたみなさんのように、広大な世界を駆け抜け、さまざまなひとに出会う毎日を送りたい。そんな願いを止めることができなかった。

母親と少年がくれたリボンが、ふわりと風になびく。女学生たちがくれた瞳が、視界いっぱいに街並みを映し出す。シスターたちがくれた綿が、やさしく膨らんで。影が汗水垂らしつぎはぎしてくれた足が、のびやかに大地を蹴り上げる。

うさぎの足は、目的地へ進む。ちいさな身体は雪が止んだ冷たいビル風を浴びる。今まで自分を縛り付けていた呪いが、剥がれ落ちていく。
―――――――――やっと待ち焦がれていた朝を迎えることができた。

★★★

今朝もはるばる鎌倉から出勤した店主は、店先のガラスが誰かの手によって割われていることに気が付いた。そして、その部分がかつてうさぎが座っていた場所ということも。店主は突然の出来事に驚いたが、静かに事実を受け入れた。

「どこかに行きたかったんだね。」
その小さな身体では投げ捨てられてしまうかもしれないし。トラックに轢かれてしまうかもしれない。また目も取れそうになるだろうし、綿も飛び出してしまうかもしれない。
だけれど、こんなに街のひとびとに愛してもらったきみなら大丈夫。悲しさや惜しさよりも、見送るような気持ちがじんわりと胸の中を包んだ。

店主は、からから、と、音を立てながらガラスの破片を掃除する。彼女を旅立たせることは、店主にはできなかった。自分たちに何かをやってのける存在が現れたことは、店主にとっての福音でもあった。

「うさぎ、捨てちゃったんですか?」
「いや、捨ててないよ」
「こんな風にガラスが割られているなんて、盗まれたんですね」
店主は聞こえないふりをして真実を伝えなかった。おもちゃの存在価値を忖度する彼らには必要ないと思ったからだ。

彼女を連れ出した、もしくは歩きだせるような希望を与えた人物は、きっと勇気のある人物なのだろう。ガラスが割れてしまったことは経費的には痛かったが、これを気に新しいものへと入れ替えてみるのもいいと思った。

きみは私の最高の相棒だった。どうか旅の途中で、たくさんの笑顔と安寧に出会うことができますように―――――。いつもと特に変わることはなく、店長は鼻歌を歌いながら従業員に紅茶を煎れる。このフレーズがうさぎへのファンファーレになるように願いながら。

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