しずり雪




 雪が松の枝をしずり、重い音を立てた。

 冬の訪れを告げるのは、晩秋に降る雪だ。日本海側に位置するこの町では、湿気を多分に含んだ重い雪がまず秋の終わりに降る。鈍色に変わった空とその雪に人々は項垂れ、今年も始まる長い冬を覚悟する。一晩で四十センチも積もることのある雪は、早く降りすぎたことを後悔するように次の日から溶け始め、道はじくじくと濡れる。靴を汚す雪泥はこの町から出ていくことを拒む足枷のようだ。
 雪は呪いだ。そして、私の名前でもある。だからどうしても冬を好きになれない。

 町からバスで三十分ほど山の方へ向かうと、温泉がある。
 賃貸経営をしている叔母はそこに古民家を改築した小さな民宿を持っていた。寂しい温泉街のさらに山側の目立たぬところにひっそりと建っていて、気まぐれな叔母のほとんど趣味のような民宿であった。そんな辺鄙なところにある宿に冬は客も来ない。実際、本格的に雪が積もる時期にでもなれば、町に出るバスも遅延したりと不便が多い。しかし叔母は「誰も来ないからいいんじゃない。静かな冬をじっくりと楽しむのよ」と笑う。

 その年も変わらず、初雪が降った。
 先生が町を訪れたのは、ちょうどそんな時期のことであった。
 叔母のところに電話があったらしい。春までの長期滞在。もちろん叔母も最初は断ったらしいが、半ば強引な相手にしまいには根負けして、受けたそうだ。

 この地方では学校が秋休みをとる習慣があり、体の弱かった私は、叔母の宿のお手伝いをすることになっていた。
「あんまりお客さんは来ないから、雪ちゃんはカウンターで本でも読んでいたらいいよ」
 叔母はそう言って、私を気遣ってくれた。
 その日は風の強い日で、窓がおそろしくガタガタ鳴っていた。
「こんにちは」
 本を読んでいると、いつしかカウンターの前にその人は立っていた。ずぶ濡れで少し震えている。
「あ、申し訳ありません。いまタオルをご用意します」
 タオルを手渡す。受け取った細い手首にいく筋か傷があり、どきっとした。「お泊まりの方ですか?」
「春琴抄、か。谷崎が好きなのかい?」
「え?」
 慌てていたため、私が不作法にもページを伏せたままにしている本の背表紙を見たのだろうか、そう言った。
「ああ、すまない。予約をしている須藤だ」
 そして先程の問いかけなどまるでなかったように、ボソボソと名乗った。
 その人はとても綺麗な人だった。華奢な顎のラインと瓜実の輪郭、涼やかな切長の目に肌も透明感のあるはっとするような白だった。長い骨張った指に桜貝のような爪が印象的で、神経質そうな字で記帳するのを見ながら、爪を磨いているのかしら、と思った。
 記帳が終わると叔母を呼んだ。その人は古風なキャリーバックと共に、何が入っているか分からない、絵の具で汚れた木の箱をいくつも部屋に持ち込んだ。「変わった人ね」叔母は自分を棚に上げて、彼をそんな風に評した。

 秋休みが終わり学校が始まったが、私はそれからも叔母の民宿へと通った。思えば、あの人に会いたかったからなのかもしれない。胸に不思議な焦燥感を抱えて、温泉街へ向かうバスに揺られた。彼に会えることは滅多になかったし、会ったとしても簡単な挨拶くらいしかしなかったが、それでもふんわりと体が軽くなるような気がした。

 とある日、また私がカウンターで本を読んでいると彼が現れた。鍵を無くしたから部屋を開けて欲しいと言う。風呂上がりなのか薄着であった。シャツからのぞく鎖骨を見て、なんだか羞しくなった。
 部屋は民宿の一番奥にあった。部屋というより物置で、寝室とは別に借りているのだという。鍵を開けて中に入ると、乾いた寒さと一緒に嗅いだことのない独特の匂いが鼻を包む。部屋の中にはたくさんの薄い白い紙が散乱していた。そのほとんど全てに絵が描かれている。裸婦であった。
「きれい……」
 思わず呟くとそれが聞こえたのか彼は薄い唇で少し微笑んで、ありがとうと言った。
「君も描いてあげようか?」
 耳を疑った。卑猥な冗談には聞こえなかった。下絵というのだろうか、墨で描かれたそれらの裸婦は、神話のように豊満な姿もあれば雪の妖精のように儚げなものもあった。それら全てが美しく、光を放っているようだった。
「私、可愛くないから……」
 思わずそう言うと、
「うつくしさというのは、目に映る、それだけではないよ」
と小さく言った。頷くことも、彼の描いた裸婦から目を逸らすこともできなかった。
「冬休みになったら、いつでも遊びに来なさい」
 そう言って閉じられた戸の前で、金縛りになったようにしばらく動けなかった。

 家に戻り、浴室に移動して服を脱ぐと鏡に身を映す。そこにはどこにでもいるような、垢抜けない田舎の娘が立っていた。母とよく似た一重の厚ぼったい瞼と低い鼻。私が描かれたとしても、あの美しい絵に混じれるなんて到底思えない。ため息を吐く。その日の夜はいっそう多くの雪が降った。

「先生……」
 いつしか彼を先生と呼ぶようになっていた。やがて本格的な冬が始まり、深い雪の中、毎日バスに乗り白い息で手を温めながら叔母の民宿へと向かった。無理しなくてもいいのよ? お世話は私一人でもできるのだから。叔母はよくそう言ってくれたが、「大丈夫」と断った。なんだか秘め事をしているような不思議な罪悪感があったが、それでもカウンターに座り、時には先生のいる物置へと足を運ぶ。先生は私が入るとちらと目をむけ、それから本を読むか、下絵を描いたり絵の具を作ったりしていた。私は黙ってお茶を淹れ、先生の邪魔にならないように椅子に座る。そうしているだけでなんだか幸せだった。これが恋なのかも知れないと、ぼんやり思った。

 緑青、群青、辰砂、金茶、胡粉。それ以外は知らない。色とりどりの岩の欠片を乳鉢に入れてごりごりと擦る。その時に浮かぶ手の甲の血管が好きだった。白い皮膚の下に確かな温もりを持ち、どんな絵具よりも赤く深い脈動がそこにある。不意に血管だけが薄い皮膚を突き破って、私に向かって伸びてくる幻想をみる。しゅるしゅると意外と乾いた音を立てて血管は私の手にまとわりつく。そうして締め上げる。先生の血液の脈動が私の皮膚を犯し、その熱を刻みつけている。どうか私の中へ来てください。先生の血を注ぎ込まれた私の体は沸騰するだろう。ふつふつと泡立って、そうして溶けていく。その想像は先生に描かれるのとは別種の官能を私に与えるのだった。思わず息を吐く。先生はそれに気づくことなく、ずっと粉を擦っている。貝殻の色を透かしたような爪が粉に塗れている。ふと我に返れば羞しさに苛まれてしまう。私はいつからこうなってしまったのか。

「脱ぎなさい」ある日、部屋を訪れていつも通りお茶を淹れると、熱を孕むことのない切れ長の瞳のままそう言った。息をのむ。
「約束通り、君を描こう。君もそうして欲しいのだろう?」
 制服のスカーフに手を掛ける。しかしそれから一向に手は動いてくれない。
「脱ぎなさい」
 魅入られたように瞳を見つめて、ああ蛇だと思った。目の前にいるのは先生ではない。蛇なのだ。そして私はこれから呑まれてしまう一羽の雛だ。二の腕を鳥肌が這う。補食するものとされるもの、その対峙に熱はない。
 どれくらい見つめ合っていたのだろう。先生は目を逸らすと「それでは結構」と小さく吐き捨てるように言った。とても小さな声だったはずだ。しかし私の耳には大きく響いた。縋るものを断ち切られたような昏い絶望が夜を連れてくる。そうだ、もう夜なのだ。母を心配させたくないから帰ると言いさえすれば、きっと受け入れてくれるだろう。もう遅いから、今日はやめておきます。
 口を開こうとして唇が微かに震える。しかし声は鎖され、雪を飲み込んだようにすっと体が冷えていく。この寒さを凌ぐ為に、いっそ抱きついてしまえればよかった。あるいは、凍りついたように動かぬ指を懸命に動かして、スカーフを落としファスナーを下ろしてしまえば。
 黙って動けないでいる私を尻目に、先生は淡々と画材を仕舞い込んでいく。不意に足元でぱたぱたと音を立てるものがあった。涙だった。床の木地に染み込み色を変えるそれが、自分の目からこぼれているのに気づくのさえ、時間がかかった。けれど一度気づいてしまえば、その勢いを止める術をもたない。
「泣くほど嫌だったのかい。それなら無理をする事ない。帰りなさい」
 嫌な訳じゃない。そう叫びたかった。むしろあの指に摘まれた筆によって私の魂ごと写し取って欲しい。けれど言葉が出ない。言葉の代わりに涙が溢れる。
 気がつくと先生が目の前に立っていた。そして、ぽん、と頭に手が置かれる。その手が熱い。凍りついた体が一気に春の雪解けを得たように、歓喜に震える。
「せんせえ……」
 絞り出した言葉は果たして届いたのだろうか。先生は不器用に笑顔を作って「大丈夫だよ」と言ってくれた。その言葉を聞くと足から力が抜けた。倒れ込むように、先生の胸へと漸くたどり着く。薄く骨張った胸。石鹸の甘い香りがした。驚いたように先生は一瞬体を強ばらせたが、頭に置いていた手で背中を優しくさすってくれた。ああ、蛇だ。いま背中を這っているのは蛇だ。やがて蛇は全身に絡みつき、骨という骨を砕き、私を呑みこむのだろう。熱い、熱いのだ。どうにかなりそうな体の内側を持て余し、それでもただしゃくりあげるだけの私をいつまでも先生は抱きしめていてくれた。
 その日、私は子供でいることをやめた。

 冬は嫌いだ。その後に必ず春が来ることを知っていても。
 けれど私の中の雪がしずり落ち、音を立てる。この冬の残響をいつまでも体の芯に刻みつけるように。

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