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価値観の流れに棹を差せば。│『書を捨てよ、町へ出よう』#1

語り継がれる名作には、語り継がれるだけの理由があるのです。

川端康成の『雪国』であれば、風光明媚な中に寂寥感を帯びた景色を現前させる圧倒的な筆力。
エドガー・アラン・ポーの『モルグ街の殺人』であれば、読者の予想をことごとく裏切る斜め上のオチ。

一面だけ切り出しても、「名作」と呼ぶに十分すぎるエッセンスがあるのです。

私は先日、そんな「語り継がれる名作」のうちの1冊、寺山修司の『書を捨てよ、町へ出よう』を手に取りました。

正直、寺山修司という人物とは友達になりそうにありません。同じ学級にいたら、真っ先に陰口の種になるでしょう。端の焼けた文庫本の一枚一枚から浮かび上がってくる彼は、粗野で、偏狭で、そして反抗的な目をしているのです。それだというのに、どうしようもなく彼の文を欲してしまう。矛盾した感情に気づきつつ、ひとつ、またひとつとページを送ってしまうのです。

私の親指がちょうど0.1ミリだけ弾む原動力は。
彼が326ページ分の原稿を書きなぐった原動力は。

この随筆は「ぼくは速さにあこがれる」と始まる。駄菓子屋で買ったグライダーを飛ばす少年が如く爽やかな一文で幕を開けたかと思えば、なぜ母親と交わろうとすると断られるのかと言い出し、それからも「青年よ大尻を抱け」(誤字ではない)とか「きみもヤクザになれる」とか、野蛮なアジテーションが並ぶのです。
そうかと思えば、今度は不幸自慢をする風俗嬢に同情してみたり、田舎を捨てたストリッパーをしみじみと描いてみたり。

ネオン街や裏社会がそんなに美しいか。

いいかげん、頭は苛立っている。
それなのに、手は動く。目は文字を追う。
100ページに差し掛かろうという頃、「歩兵の思想」という見出しが目に入る。

ここで私は、「原動力」に気づかされるのです。

サラリーマンのランチをライスカレーとラーメンに分け、ライスカレーを食す者を家庭に満足する現状維持型のサラリーマンと断じたのに対し、ラーメンを食す者を腹も膨れずに欲求不満でいらいらしていると褒めたのです

そうか、いらいらしているのか。

思えば、母親に対する屈折した熱情は権力保持を裏に隠した道徳心への怒りだし、青年に女性の尻を追わせたのも若さを無駄づかいすることへの怒りだったのです。

この書籍が出版された1970年代の日本人は、画面の中でいつも怒りに満ちていた。
革命を掲げるはみだし者たちが『球根栽培法』や『腹腹時計』を愛読し、各地で立てこもりや爆破を実行した。オートバイ愛好家集団のカミナリ族は、オートバイの低価格化に伴って暴走族に取って代わられた。その結果、コンビニや駅の壁面で不敵な笑みを浮かべる黒縁メガネの青年と、「ゆっくり走ろう」という看板だけが令和の時代に虚しく残されたのです。

寺山修司という人間も、自称革命家や珍走団と同じように、内に秘めておけない怒りがあったに違いありません。しかし、その怒りは決して力に訴えることではなく、筆で訴えることで鎮められたのです。
しかも、100ページまで彼の心を推し量ることができないほど、極めて冷静な文体で書かれているのです。経験がある方も多いでしょうが、誰かに何かを訴えかけようとするとき、キレると大抵の場合反発されて終わりなのです。たとえどんなにボルテージが高まっていても、淡々とした口調で説得しなければ人心に響かないのです。この書籍は、ふつふつと湧いてくる鬱憤を、時に皮肉交じりに、時に諦観を伴って表しています。そのニヒリズム的な憤りがあるからこそ、生意気な平成生まれにも文を読ませることができるのです。

この書籍には、現代の価値観からすると到底許容されない表現が多数存在します。例えば、本文中にたびたび登場する「トルコ風呂」という名称はトルコ人からのクレームによって改められているし、「オリンピック選手なんかには乙女心を感じさせる可憐な女の子ってのはいませんからね」という牧場のスタッフの発言は他人の発言だろうがもれなく非難の対象となるのは言うまでもないでしょう。それでも「名著」として半世紀近く経った今でも評価されているのは、文に秘められた静かな情熱が流れゆく価値観の中に絶対的真理という棹を差しているからなのです。

第2章「きみもヤクザになれる」の中の一節「さすらいの切手」にこんな文があります。

「エンピツじゃ人は斬れないが、ことばじゃ、人を斬れる」
と私は川魚料理をつつきながらいった。
「むかしの博徒は脇差で人を刺したもんだが、現代のヒーローは言葉で人を殺すのさ。みんな言葉を通してしか他人と接触できない世の中だからね」

私が文章を書き始めたのは、私が見ている世界を誰かと共有することで何かを感じてもらい、賛同なり批判なりをいただきたかったからです。しかし、ことばというのは人を斬ることができる強力な武器なのです。うっかり誤って使えば「辻斬り」になるというリスクはありますが、正しく扱えば「現代のヒーロー」にもなれるのです。

どうせなるなら、英雄になりたい。
怒りを表情の下に隠して、退屈そうな顔で悪人を刺したい。
あわよくば、価値観の流れに巨大な岩を放り込みたい。

寺山先生、私にはその資格があるのでしょうか。

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