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【映画評】 ネメシュ・ラースロー監督『サウルの息子』 ゾーエーとビオス

人を二分法で論じることにどれほどの意味があるのかはこの際問わないことにしよう。
人の実相をギリシャ風に規定すれば、ゾーエー(私的な生)とビオス(政治的な実存・existence)ということになるだろう。ハンナ・アーレント的に記述すれば、前者は家を場とする生物学的な生としての人間、後者は都市[国家]を場とする政治的・生活形式における諸活動の主体としての人間である。

この規定によれば、社会的存在としての言葉を生きる、奴隷でない高貴な存在とは、ビオスを生きる人間ということになる。ところが、イタリアの思想家アガンベンによると、ゾーエーとビオスとのあいだの「古典的な区別については、われわれはもはや何もわからなくなっている」(アガンベン「政治についての覚書」『人権の彼方に』所収)という指摘もある。この論旨は、アガンベンによるフーコーの〝生政治〟批判と関連し興味深い。
だが、ゾーエーだけが必然として立ち顕れる生もある。正確に言えば、特殊な状況にある生に〝ゾーエー/ビオス〟の選択肢はなく、ゾーエーのみを強要される事態が確実に存在する。メネシュ・ラースロー監督『サウルの息子』を観て、そう思わざるを得なかった。

サウルにとり、ゾーエーだけが自らの実相である。彼の眼前にはビオスはなく、その選択肢すら存在しなかった。ゾーエーとはいきる生ではなく、生物学的に在るというだけの生。ナチスによりガス室で殺害された息子らしき死体をユダヤ教の教義により手厚く埋葬しようとラビを探す生。その〈生〉は生きてはいない。ただそこに在るだけの生。死体がたとえ息子でないとしても、息子らしき死体の埋葬を求める生。なにごとが起ころうと、教義に則り手厚く埋葬することでサウルの生(または死)の宇宙は満たされる。ただそのことのための生。そのことが自らの……自らという自己すら存在しない……死を誘発しようと、サウルの生はそこに在る。数ヶ月後には殺害されるであろうゾンダーコマンドの一員であるサウル。女囚から爆薬を受け取り、仲間と収容所脱走計画に参加するサウルだが、それは未来の生を獲得することではない。それは息子らしき死体の埋葬のための生として在るに過ぎないのである。

(日曜映画批評:衣川正和🌱kinugawa)

メネシュ・ラースロー『サウルの息子』予告編


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