15年ぶりの残念な日本

日本に帰国して東京でまた働き始めたとき、15年ぐらいの間に日本もだいぶ変わっているかな、と思ったのだけれど、それほどでもなかった。 というより、変わっていないことに感心し、またがっかりもしました。 日本人が根底に持っている価値観はそう簡単に変わらないんだな、と実感しましたし、ある部分では悪いほうに変わっているところもありました。

どこもかしこも、びっくりすることはたくさんあります。 街を歩き、電車に乗ると、人々の生気がなく、まったく周りの人に関心がない様子に、ぞっとする思いがします。

また、買い物をしたり、レストランで食事したりしてみると、15年前(1990年代) より応対が丁寧になった印象があり嬉しくなった反面、サービスの質という意味では、残念なところがたくさんあります。

これらのことは、思うところがいくらでもあるので、またの機会に少しずつ書いていきたいと思っています。

今回は、日本で仕事をしていて感じたことの中から、日本人の品性は大丈夫なんだろうか、と怖くなった出来事について。

とある外資系の企業で働いていたときのこと。 外資系とはいっても、もともとは日本の企業で、M&Aによって経営だけ外資になっている会社でした。 外国籍のスタッフは特定の部署に固まっていて、そのほかの部署ではほとんどの業務は日本語で、日本企業の文化で進んでいる感じでした。 私はITチームのひとつに所属し、外国籍の開発ベンダーとやりとりする業務が主だったので、日本語より英語のほうを使う機会が多いかな、という環境でした。

あるとき、勤怠連絡のメールが送られてきました。 チーム外の人からで日本語です。 私の知らない人でしたが、送られてきたので見てみました。

「申し訳ありませんが、生理痛がひどいのでお休みさせていただきます。 休みが続いてしまい、ご迷惑をおかけして本当に申し訳ありません。」

これ、たぶん日本では違和感ないですよね? よくあるメールですよね?

私はとても苦しくなりました。 なんで、生理痛なんてプライバシーを、ここまでさらけ出さないといけないのか?

久しぶりに日本で働いた私にとってはとても驚きでした。 ニューヨークではこんなこと考えられないからです。 日本でだって20年前には、セクハラやパワハラが野放しの社会であっても、こういうことは言わなくていいという配慮があったと思います。

生理痛というのは、その情報の性質からして、あまり大っぴらに話すことではないはずです。

(生理は恥ずかしいものではないから、隠さなくてもいい、というのは、意味の違う話です。 ネガティブになる必要はないということであって、このような個人のプライバシーをどう扱うかは、当人と社会の品性の問題です。 日本は、とても先進国とは言えないほど性教育がお粗末なのですが、そのことと無関係ではないと私は思いますね。)

仕事の場面ではなかったと思いますが、ニューヨークにいたとき何か同じようなことがあって、メールを見たラティーノの男性が “Ewww!” (笑いの ”w” じゃないですよ!) と嫌悪感をあらわにしていたことを思い出します。

結局は 「シモ」 の話になるわけで、そんなことを公にメールで発信することに何も感じなくなっているとしたら、その社会はやっぱり感覚が麻痺してます。

私はこのメールの発信者が誰だかわからないんですよ。 この人は、いったい何人に宛ててこのメールを送ったんだろう? それだけでももう彼女が気の毒で気の毒で、気が遠くなりそうでした。

そこまでして、どうしても休まなければならないとアピールしなければ、休めないんだろうか?

きっとそうなのです、日本では。 昔からそうだったけど、今でも。

昔と違うのは、昔は休む理由を伝えるには電話しかなかったのですが、今はメールがあるため、何人もの人に一斉に伝える形になることですね。 電話で一人だけに伝えるときは、ちょっと際どいことを話すことがあったとしても、それはその人に話したのであって、そのほかの誰にでも知らせていいわけではない、という暗黙の了解が存在していたと思います。 でもメールでは、一人だけにしか言いたくないと思ってもそれだけでは済まなくて、チーム全員に送ることが義務になっていたりしますね。 このように、言いたくない(聞きたくない) ことはオープンにしない、という配慮もなくなっていることが、昔より悪くなっていることのように思えます。

日本でも、もっと純粋な外資の企業(アメリカなどの) では、休みの理由をいちいち問いただすことはありません。 ニューヨークでも同じでした。 体調が悪くてとか、家庭の事情で、と言えば十分で、それ以上の詮索は必要ないし、ましてや休みを認めないなんてことはありえません。 休みの理由なんて人それぞれあって当然だからです。 必要な業務ができてさえいれば、その人は役割を果たしているのだから、いつ休もうと問題ではないのです。 休みを自分でマネージするのも仕事のうちです。

そして日本の社会が、仕事を休むことに対して異様に厳しいというのも、何か目的を見失っているのではないかと思います。 みんな生身の人間なのだから、体力や体調にもいろいろある。 その中で、それぞれが自分のできることをやっていれば、それだけで業務に貢献していることになるではないですか。

みんなが同じことをするよりは、それぞれが違うことができる、というほうが、よほど集団の利益になりますよね。仕事は何よりも優先されなければならない、他のことをすべて犠牲にして、企業に尽くさなければ(少なくともそう見られなければ) 熱意が足りないと思われる、みたいなことは、根性論でしかない。 業務に必要なのは、根性論ではなく、生産性ですよね。

部下や同僚が休むことを認めない、という精神構造は、どこから来ているでしょうか。 体力はみな違う、家庭の事情もみな違う、ということを認められないでしょうか。 社員の健康を保つより、何が何でも出社させることのほうが大事でしょうか。

国外の感覚で日本を見ると、人間としての心を無くしているように見えます。 それは、日本人が思っているよりずっと、日常の何気ない場面にたくさん転がっているのです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?