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震災で問われたもの~キリスト教メディアの視点から(6) 教派を超え新しい協働を

「中外日報」2014年7月23日~8月8日に寄稿した連載全6回。

語るべき言葉を取り戻す

 これまで続けて自問してきたのは、震災をめぐるキリスト教界の「応答」のあり方である。社会学者の開沼博氏(福島大学特任研究員)は、震災後の状況を〝再「宗教」化〟と評した。

「今求められるのは、自らの考えが唯一・最上のものではないことを自覚し、社会に複数の『信心』が存在する状況を認め、その前提で議論を始めることだ。自らの考えに合わぬ者を、蔑み罵り責任をなすりつける『宗教紛争』の先には、『善意の分断』の中で現状の課題が忘却され、坦々と維持される未来が待つだけだ」(『フクシマの正義』幻冬舎)

 見えない不安にさらされながら、現地で生き続ける被災者に寄り添い「再生」に寄与するのか、狭隘な「善意」で無意識のうちに「分断」を深めるのか。私たちは今、その難しい選択を迫られている。この大き過ぎる課題に取り組むという一点において、もはや宗教による違いはあまり意味を成さない。

 『がんばれ仏教!』(NHK出版)以来、関係者を叱咤激励し続けてきた文化人類学者の上田紀行氏は、寺や教会の大切さを再認識すべきと説く。

「非常時には支援の網の目となり、またふだんからそこに集う仲間たちの存在が苦しみに直面した中で大きな力となる。そしてもちろん、すべてが失われ、極限の苦悩に瀕しても、神や仏とともに生き抜いていける信仰の力は大きなセーフティーネットとなる。目に見える救い、助け合う人の絆、目には見えないが信ずることの中にある救い、それらが多重に張りめぐらされた信頼社会の中に『救いの力』はある」(2011年4月23日 東京新聞「『救いの力』の復活を・下」)

 この間、志ある仏教者たちの活躍を方々で見聞きしてきた。震災前から「反原発」を貫いてきた中嶌哲演氏、「カフェ・デ・モンク」で傾聴に取り組む金田諦應氏、『寺よ、変われ』(岩波新書)で旧態依然の体質を批判した高橋卓志氏、「彼岸寺」「未来の住職塾」などで新しい仏教のあり方を模索する松本紹圭氏、フリーペーパーを通して発信を続ける池口龍法氏。他にも、数々の仏教者による具体的な実践が紹介されてきた。キリスト教界は、残念ながら後れをとっていると言わざるを得ない。

 「3・11」後を生きるキリスト者がすべきことは、絶望の淵をさまようことでも、かりそめの希望にすがることでもない。従来のいわゆる「宗教間対話」の枠を越えて、互いの特性を生かし謙虚に学び合いながら、共通する課題に取り組むこと。そして、語るべき言葉を自らの口に取り戻すことではないか。当然これは、仏教者にも通じる課題のはずである。

 かつて海を越えて渡来した宣教師たちが、この国の教育、福祉の基礎を築いたように、窮地に足元をすくわれることなく、広い視野を持ちつつ国籍、人種、信仰の違いを超えて、他者のために力を合わせられる宗教者でありたい。原発、格差、貧困、差別、虐待、自死、不況、安全保障……。やるべきことは山ほどある。

(「中外日報」2014年8月8日付)


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