見出し画像

[023]脱偏差値世代


こんばんは、まっちゃんです。


Society5.0、ウィズコロナ、または、元号が令和になったからなのか、ほふく前進ながらも革新的に進む世界各国に置いていかれないよう、「働き方改革」や「リモートワーク」といったどこかカッコよくて、次世代風で、新しげななにかをやらねばいけないんじゃないか、と、政治も国民もなんだか急いているように私の目には見えます。

サービス残業や過労死といった、いまある社会問題をこれを機に減らして無くしていく方向にまず視座をとるべきなのでは?なんてことは、いい加減飽きるほど感じているわけですが、新しいモノ好きで、かつ、一度はじめたら止められない国民性を前にしてそれはなかなか無理難題なようです。


偏差値社会に浸された私から

さて、最近になって「偏差値教育」が少し貶されはじめている周囲の状況に、私なんかはちょっとばかり寂しいなぁ、なんて思ったりしています。

寂しく思っているところはただのエゴなのでスルーで全然OKなのですが、今回はそういった傾向にある潮流はいささか危ういような気がしているという話です。


Society5.0も、ウィズコロナも、何が正しいかは、わかりません。

古きを踏襲するのがいいのか、新しきを導入するのがいいのか、わからないことばかりです。

そういった不透明な先行きを前にしながらも、「教養と専門性を兼ね備えた人材」とか、「グローバルでクリエイティブな人材」とか、新時代における多様な要請(主に文部科学省からの要請なのですが)を横目でチラ見する中、最近になってメディアや高等教育において「偏差値教育は古い」という一般論も耳にするようになりました。

注文の多い文部科学省と同様の流れに乗ってやってきたこの言葉の意図は、いまの時代の流れを見れば、一部理解できるところもあります。


いまある状態への執着

ただ、教育業界の隅にいる身としてはまず、「偏差値教育は古い」という言葉自体があまりにも既存構造の強さを甘く捉えているような気がしてなりません。

コロナ禍に伴い、一時的ですがドラスティック(劇的)な変化が社会の至るところで起きました。

医療崩壊寸前とか、ライブハウスが次々と閉鎖するとか、観光業界が存続の危機に立たされるとか……といった緊急事態に応急処置を施してきました。

それでも、形状記憶合金のように――良くも悪くもですが――直るところ、直せるところから元のカタチに直っていくのが、日本という国だと私は思います。

世界的に見て(というか先進国が多い欧米諸国と比べて、という表現が正確ですが)コロナによる被害が小さかったことも影響していると思いますが、7月下旬から大都市圏と夏のリゾート地を主として感染者数が増加していることは、感染の第1波などの“峠”を越えた経験によって、社会全体的に「元の生活に戻りたい(戻れそう、戻さないともたない)ムード」になっていたからだと思います。

そして、その雰囲気の背後には「前にやっていたやり方でまだやっていけるでしょムード」が潜在的に隠れているようにも見えました。


執着するのに大事にしない

コロナ禍についてはこれくらいにしておきますが、このように、既存構造への依存度があらゆる面において非常に高い日本では、こと教育業界においては「偏差値教育は古い」といった声が喧伝され、横文字ばかりの、抽象的な、現場を無視した人材育成論が、(注文の多い省庁をはじめとして)びっくりする方角から窓ガラスをつき破って舞い込んできます。

正直「偏差値教育が古い」かどうかはわかりませんが、私が感じた「危うさ」とはまさに、「偏差値教育にレッテルを貼られることへの危うさ」です。

もっと先見するなれば、レッテルを貼られることそれ自体より、それによって生じる未来的な被害を懸念しなければなりません。


頼んでもいないのに途中から土曜授業がなくなった私たち「ゆとり世代」は、この令和の世になっても未だに「これだからゆとりは…」と勝手に上位世代に嘆かれ、謂れのないレッテルを貼られることが多々あります。

このレッテル自体は、もはや社会全体(国民)が学ばない限り、なくなることはないでしょうし、それをなくそうというアプローチをしたくもありますが、やっぱりバカバカしく思えるというものです。

「ゆとり世代」も気づけばいい大人ですし、自分と他者との距離や間の取り方は、世代別に見ても「上手い」方に入ると思っているので、そんな戯言で優越感に浸っているような人とは、それなりのお付き合いで片付けて、済ませているのかもしれません。

やはり私が懸念しているのは、未来的な被害の方です。


脱偏差値世代

ちなみに、みなさんは2020年が「大学入試改革元年」と呼ばれていることをご存知でしょうか。

これは間違いなく、鉛筆塗りつぶし式の試験をやめようという考えから、大学入試センター試験を廃止することからきています。

そのため、前述した注文の多い文部科学省からは「教養と専門性を兼ね備えた人材」、「グローバルでクリエイティブな人材」というような姿を、大学共通テスト導入によって描き始めたいのだろうなと、ひしひしと感じるわけです。

しかし、私にはどうしても「これだから偏差値を知らない世代は…」と(偏差値で測られていた私たち)ゆとり世代から勝手に嘆かれる姿しか想像できません

あくまで予想にすぎませんが、「大学共通テストを導入した2020年代は偏差値教育からの脱却を目指した」のにもかかわらず、「2030年卒の新入社員は偏差値を知らないからモノを知らない」という論理が、気づけばまかり通るようになっているかもしれません。


この潮流のまま新しい教育政策が推進され、展開されていけば、とりあえずは目指した人材像に近づくことは可能といえば可能です。

しかしながら、新しいモノ好きが高じて、いまある状態への正しい批評や評価をほとんどしてこなかったというこの国の事実を見逃してはいけません。

「偏差値教育はダメ!新しく始める教育政策がイイ!」といった、5歳児でも考えられるような二項対立の考え方ではなく、二項並立、二項共立のように、考え方もアップデートしていかなければ、かつて2020年代以前に偏差値が担っていた役割の重要性を痛感してしまうような事態を呼び込むような気がしてならないのです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?