見出し画像

[021]想像を絶する


こんばんは、まっちゃんです。


「俳優の三浦春馬さん死去」というスマホの速報を見て、そんな名前のベテラン俳優さんいたかな、と思ってしまいました。

それくらい実感の湧かないニュースだったということかもしれません。

特に同世代にとっては、“理解が追いつかない”ニュースだったのではないでしょうか。


衝撃だった『14才の母』

いまから14年も前の話ですが、日本テレビ系列で『14才の母』というドラマがありました。

私と同世代なら“通ってきている”はずですが、彼を知ったのはまさにこのドラマでした。

「早くして子どもを産むこと」に物語の主水路をとりながら、視聴者にその大変さや命の大切さを説いていた、そんなドラマでした。

ただ、春馬さんの訃報に接した今、この作品を思い起こすと、非常に“ゆっくりとした”ドラマだったんだなと、追想されます。


『14才の母』というタイトルは、当時大きな衝撃と反響を呼んだように記憶しています。

私が思春期真っ只中だった、ということもあるかもしれませんが、年端もいかない若さで男女関係を築き、その上、子供を産んでしまうという事実はあまりにもショッキングでしたが、なにより、タイトルからそれが読み取れてしまうことが衝撃、まさに、想像を絶することでした。

それとは裏腹に過激な内容なのかと言えばそういうわけではありませんでした。

そういう決断をした娘を、最初は受け入れられないながらも、その決意の大きさや無償の愛などによって、最終的には家族(両親)が受け入れていくストーリーだったことも、同様に記憶しています。

12話構成が基本のドラマは、2時間ドラマとは違って展開も構成も比較的自由に組めると思いますが、特に“ゆっくりとした”ドラマだと感じたのは、その移り変わりがグラデーションのように丁寧に描かれていたからだと思います。


かかえきれない量をかかえて

しかしながら、『14才の母』をいま放映したとしても、そこまでの驚きをもたらさないことでしょう。

社会問題として取り扱うべき問題はインターネットの台頭とともに複雑さと多様さを増しました。

情報の豊かさと引き換えに「ひとつの問題をじっくり理解する」という道のりをオフしてしまったように思います。

中学生や高校生で子どもをもうけ、ドラマのような「14才の母」が生まれる、といったひと昔前の衝撃にそこまでの驚きを感じなくなっているように思えるのは、まさに、抱えきれない量の問題を気付かぬうちにがんばって抱えようとしているからではないでしょうか。

現代人の病理、なんて小難しくは言えますが、そんな風に定義することにあまり意味はないのかもしれないと、最近になってよく思います。

それは、問題を解決しないと意味がないから、なんでしょうけど。




それでは、その人が持てるだけの量、処理できる量について判断を下す決裁権は、いったいぜんたい誰が持っているのでしょうか。

少なくとも、持つ人・処理する人がその権限を持っているように私は思えません。


三浦春馬さんがどういう思いをもって自死を選んだかは、一般の人にはわかりません。

しかしながら、容姿端麗、才能にあふれ、将来がほぼ約束されているような人生を送っていても、自ら命を絶つことを彼は選んだのです。

もう一度言いますが、彼がどういう理由でそこまで追い詰められたかは、この後の私たちにもわからないことでしょう。

ただ、彼にとって「何か」が想像を絶するものであったことは確かだと思います。

そして、その「何か」が抱えきれない程の量を帯びていたのかもしれません。

そして、その量を適正に決める権限を彼は与えられていなかったのかもしれません。


容姿端麗なのに、将来有望なのに、という方々からの嘆きの声は、もっともらしい意見ですし、理解もできます。


しかし、あきらかにその声は間違いであると言っておきます。


それは単に「もっともらしいだけ」です。


残念ながら、そんなインスタントな気持ちで済ますことしかできないほど、私たちも蝕まれているのかもしれません。

そうやって疑問に思ってみてやっと、「ひとつの問題をじっくり理解する」ことから久しく遠ざかっていることに気づきます。


そこに気づかない限り、このよくわからない病理は止まらないように思います。

なぜなら、その病理の根は、熱湯3分で満足できるような浅いところにはないからです。

もっと、もっと、深いところにあるのだろう、と私は思っています。



三浦春馬さんのご冥福をお祈り申し上げます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?