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【芥川賞受賞作品研究②】

第170回芥川賞受賞 九段理江『東京都同情塔』

2024年上半期の芥川賞を受賞した九段理江氏の『東京都同情塔』。現在、この記事を執筆しているのが同年の3月であり、まだその発表から2か月あまりしか経っていない。2024年が始まってまだ3か月だが、数多くの事件が起きたように思う(私にとっては本作品が芥川賞を受賞したことも事件の一つである)。まずは年の初め、元日に起きた能登半島地震、そして羽田空港での航空機衝突事故。世間が落ち着く間もなく、芸能界隈では文春による松本人志の性加害疑惑騒動、政治界隈では裏金パーティー問題などが取り上げられた。
 2023年にもジャニーズ問題で性加害に対するセンシティブな報道がなされたが、今年はその対象が松本人志となった。「上の者が下の者を性的に搾取する」という構造が露骨に浮かび上がってきた昨今であるが、本作品はそういった「性の問題」についても言及しており、「旬な話題を上手いこと取り入れた」感が強い(別に悪いことではない)。

単行本の帯から読み取る考察

 物語のあらましを書く前に、まずは単行本の帯の言葉に注目してみる。

「Qあなたは、犯罪者に同情できますか?
 生成AI時代の預言の書!」

 まず一文目だが、読者諸君はどのように考えるだろうか? とりあえずこれは作者九段理江氏による「読者への問いかけ」であることは間違いないだろう。それでは私自身、犯罪者に同情できるかどうかを一旦考えてみたいと思う。
 犯罪者といってもピンからキリまでいると私は思っている。例えば、父親にレイプされた娘がその父親を殺して捕まったとしよう。その場合、やはり私はその女性に同情できるし、父親を殺す意外に性暴力を止められなかったのならば仕方なかったと考えるだろう。
 上の例だけでは極論になってしまう為、違う例も出そう。例えば麻薬。麻薬は日本では違法薬物に指定されているが、それでも国内で吸っている人は少なからず存在している。彼らは別に大麻を吸っている以外、違法性のある行動をとっていない。そんな大麻使用者が捕まった場合、彼らを犯罪者として同情できるだろうか?
 私は別に大麻が合法でも違法でも構いはしないが、それに対して同情は少なからずしないだろう。大麻使用者は逮捕されるリスクを取って使用しているのだ。それに同情が必要だろうか? もっと言えば、大麻合法化を謳う人間から見れば大麻で捕まった人間を「犯罪者」として見れないだろう(大麻に依存性がない事を加味すれば「大麻を吸う以外生きていく術がなかった」という状況も考えにくい)。現行法に異議を唱える人々にとって、法の下で犯罪者の烙印を押された人間が「犯罪者」と認識されない場合もある。
 以上のことを踏まえた上で最初のクエスチョンに戻ると、この問いかけを考える上で重要な二つの鍵を見つけ出すことができる。まず一つは「どこまでを犯罪者と定義するか」、そしてもう一つが「どこまでの犯罪が同情に値するか」である。これら二つの尺度は個人の倫理観の中で形成されるものだと思うし、「正解」はないように思う。非常に哲学的な問いである。それを突き付けてくる本作は読む前から既に不穏な空気を醸し出している。
 少々長くなってしまったが、次に進むとしよう。「生成AI時代の預言の書!」と銘打ってあるが、これは本作品の約5%が生成AIによって生み出された文章であることに由来している。また、作品作りにAIを活用しただけでなく、本作の主人公・牧名沙羅の「人間性」にもAI的言語思考が備わっている。

作品の概要

まずは舞台設定から説明していこうと思う。舞台は2020年東京五輪の際にザハ・ハディドの国立競技場が建設された東京である。

東京五輪国立競技場について

 ここで一旦、東京五輪国立競技場についての註釈を挟ませていただきたい。というのも、読者の中には東京五輪国立競技場の設計者が誰だったのか知らなかった人もいるかもしれないからだ。実際私も知らなかった。なので、作中で「ザハ・ハディトの設計した国立競技場」が出てきた際に、現実の国立競技場もザハ・ハディド氏が設計したものだと勘違いした。
 まず”現実の”時系列順に説明していこう。2012年に国立競技場の国際コンペが実施され、そこでザハ・ハディド氏のデザイン案が選ばれた。その後、初期見積もり3000億円、デザインが「女性器に似ている」等の批判の声が上がった。そして日本建築界の重鎮と呼ばれる槇文彦氏が問題提起を行い、2015年にザハ案は白紙撤回となった。翌年の2016年、ザハ・ハディド氏は心臓発作のため亡くなった。彼女は白紙撤回となった際に反論声明も出していたようだが、その要望が叶えられることはなかった。そして”現実の”東京五輪国立競技場を設計したのは日本人建築家の隈研吾氏であった。

つまりこの作品の舞台は、建つことのなかったザハ・ハディドの国立競技場が建っている「パラレルワールドの東京」である。そして、ザハ・ハディドの国立競技場の南隣に建築家である主人公・牧名沙羅が建設した「シンパシータワートーキョー」=「東京都同情塔」が佇む世界でもある。本作の一文目に「バベルの塔の再現」と書かれているが、旧約聖書に登場するバベルの塔は、その崩壊によって人類の言語がバラバラになってしまったが、「シンパシータワートーキョー」はその建造によって世界をバラバラにするという。

バベルの塔の再現。シンパシータワートーキョーの建設は、やがて我々の言葉を乱し、世界をバラバラにする。

九段理江『東京都同情塔』

主要人物

上述したように、本作品の主人公は建築家の牧名沙羅という女性である。
 物語の序盤、彼女は昔「数学少女」であり、高校生の頃に「レイプをされた」という衝撃の告白が語られる。周囲の人間はそのことを、男が彼女の恋人でありで女から家に誘ったからという理由で「レイプではなかった」と判断した。彼女はそれを今からでも「レイプだった」にすればいいと豪語する。

つまり、私を「レイプしていない」と言ったあの男のことを「好きだった男」ではなく「好きではなかった男」と言い換えて、「レイプではなかった」を、今から「レイプだった」にすればいい。

九段理江『東京都同情塔』

彼女はこの言葉のすぐ後に「いい?」と自分の言葉に突っ込みを入れる。彼女自身の考えた言葉にもう一人の彼女(内なる監視者とでも言えばいいのか)が異議申し立てをしているのだ。監視者は彼女の思考・言動が誰も傷つかないような「優しい言葉」になるように、多くの人々に配慮した言葉になるように添削を施そうとしている、といった感じだ。これが主人公・牧名沙羅の特異性であり、上述した「AI的言語思考」のそれだ。

 この作品にはもう一人のキーパーソンがいる。彼女の「歳の離れたボーイフレンド」の拓人である。彼は高級ブランドのアパレル店員をしていた美少年でその容姿の美しさから牧名沙羅に見初められ二人でデートをする関係に至った。本作品は牧名沙羅と拓人、二人の語り手によって語られる。

「ホモ・ミゼラビリス」

 作中で既に「ザハ・ハディドの国立競技場」「シンパシータワートーキョー」といった架空の建築物が登場してきているが、またしても、次は架空の概念が提唱される。それが「ホモ・ミゼラビリス」である。これは作中の幸福学者マサキ・セトが上梓した『ホモ・ミゼラビリス 同情されるべき人々』から端を発している。
 詳細は省くが、マサキ・セトの言い分を私なりに言い換えるとこうである。

「非犯罪者は生まれた環境が良かったから罪を犯さずに生きてくることができた。犯罪者は環境に恵まれなかったために犯罪者になってしまったのだ。なので、恵まれた人々は犯罪者に同情し、犯罪者に良い環境を与える義務がある」

上のような理由から「ホモ・ミゼラビリス」という概念は生まれ、彼らの衣食住が約束された場所シンパシータワートーキョーが建設されたのだ。「なるほどな」と頷きはするものの、塔を建設するのは少しやりすぎではないかと思ってしまう部分もある。それについては後に解説させていただくことにする。

さて、「同情されるべき人々」にパラダイスみたいな場所を作ってあげるという理念のもとでコンペが開催され、それを見事勝ち取った牧名沙羅だったのだが、読者の皆様に一度思い出していただきたいのだが、彼女は自分を「レイプした」男に果たして同情していたと思うだろうか? そしてまた、あのレイプは環境のせいだったと言えるだろうか? 
 彼女の意思と彼女の建設する塔の理念との間には少なからず矛盾が生まれている。そしてこの矛盾が物語の終盤に効いてくるのだが……まだ読んでいない方は是非本書を手に取って読んでみてほしい。

外部テキストを読み解く

 作中に登場した架空の概念「ホモ・ミゼラビリス」はおそらく、十中八九、ヴィクトル・ユーゴーによって書かれた名作『レ・ミゼラブル』を下敷きにした考えられた概念だと思われる。一応、『レ・ミゼラブル』の説明を入れておく。
 『レ・ミゼラブル』はフランスの歴史小説であり、1862年に出版された。主人公はたった一個のパンを盗んだだけで19年間投獄されたジャン・バルジャンという男で、彼はその後身分を捨てて市長となっており、彼は恵まれない人々のために自分の手に入れた身分さえ捨てて正義のために行動する、とても感動的な物語である。

『東京都同情塔』では「ホモ・ミゼラビリス」以外にもオマージュ的描写が見られる。
 拓人が牧名沙羅を食事に誘う場面である。

「お腹すいた。パンでも盗みに行こうよ」
「いいね。行きましょう」

九段理江『東京都同情塔』

 最初に読んだときは何かの暗喩かなと思ったが、後にジャン・バルジャンのパンを盗んだ罪に掛かっていることを知った(私は元々『レ・ミゼラブル』の名前は知っていたが実際に読んだことが無かったので、これを機に映画「レ・ミゼラブル(2012)」を視聴した)。このように、本作品には外部テキストを読み込んだ上で理解できる表現が多数見られる。それについての良し悪しというのは読者の判断に委ねられているが、外部テキストを読んだ後だとより作品を理解できるということには間違いない。

マックス・クラインの記事

 本編終盤、マックス・クラインという架空の外国人ジャーナリストの記事が差し込まれる。私はこの記事がこの作品の核心であり、最も面白いと思った箇所でもあるのだが、その中の一文を少し長いが引用する。

私はいまだに日本人をどう言語化していいかわからない。もはや君たちを言語化するなんて、どんな人間にも不可能なんじゃないかとさえ思っている。なぜなら君たち日本人とは、いくら言葉を尽くしても言葉の先に行くことができないからだ。言葉はいつまでもただの言葉にしかならない。言葉はどの国にも流通していない紙幣になってしまう。いくらふんだんに持っていても何とも交換することができない金だ。口にされる言葉以上のことを、君たちが沈黙と中立的な微笑みの向こう側で考えているのはわかる。そのことが私をどうしようもなく苛立たせる。

九段理江『東京都同情塔』

 マックス・クラインは日本人が良く使う「本音と建て前」について言及していることがわかる。「いくら言葉を尽くしても言葉の先に行くことができない」とは、彼が今まで日本人の本音に遭遇したことがないことを示唆している。「本音を聞きたいのに本音を聞けない」と日本語特有のコミュニケーションの欠陥を嘆いているのだ。

 実際私たち日本人は、何が本音で何が建て前かわからなくなってしまうことがあると思う。「相思相愛だと思っていたが相手はそう思っていなかった」「親友だと思っていたが、相手はただの友達だと認識していた」等々、そういったことを私も学生時代に思い悩んだりしたこともあったが、成長していくにつれて気にならなくなった。多くの人が同じような経験をしているのではないだろうか? 私たち日本人は「大人」になると「本音と建て前」を気にしなくなる、いやむしろ、「本音」を気にせずに「建て前」ばかり気にするようになるのではないか?
 私たちがどう思おうとも、日本社会は「建て前」を強要してくる風潮がある。その社会に慣れ切った私たちは、とても自然に、AIが言語生成するかの如く、建て前を生み出し、生み出し続けているのではないかと思う。

 これは余談になるが、作中で自他ともに「三流ジャーナリスト」と称されるマックス・クラインの記事には外部テキストのエッセンスが多数散りばめられている。私の確認できた外部テキストのリストが下記である。まだ私が気付いていない外部テキストがあるかもしれないので、是非皆様も本書を手に取って確認してみてほしい。

・漫画『デスノート』
・映画『レ・ミゼラブル(2012)』
・小説『1984』
・映画『2001年宇宙の旅
・小説『金閣寺』

本作品は上記の作品を知っていなくても十分に楽しめるものになっているが、知っていればより一層楽しめるだろう。

芥川賞選評

それでは、そろそろ芥川賞の選評を見ていきたいと思う。今回は選評が公開された『文藝春秋』2024年3月特別号が手元にあるので、そこから一部抜粋していく。

小川洋子
「ある事柄に名前が付く。トランスジェンダー、フェミニズム、多様性……。するとそれまで薄ぼんやりしていた世界の一部がふいに輪郭を持ち、見えているようでいなかったものの存在を意識できるようになる。自分の視界が深まったかのような錯覚に陥り、その言葉を便利な道具として使ってしまう。やがて言葉は膨張し、それを共有できる者とできない者を容赦なく分断してゆく。」

「「東京都同情塔」は、そうした言葉のいびつさが招く恐ろしさを描いている。共感の行き着く先には、犯罪者に同情を寄せるための塔が建設される。」

「ただ、どうしても私は、建築家の牧名沙羅にも塔で働く拓人にも人間的な息遣いを感じることができなかった。思考のための言葉ではなく、心からにじみ出る声なき声を聞きたかった。」

島田雅彦
「『東京都同情塔』は生成AIとその基盤である大規模言語モデルに対する批判意識を中心に据え、現実を大いに反映した脳化社会のディストピアに生きる憂鬱を語った作品である。」

「並列的に独自のターミノロジーを持つ建築への言及もあり、語り手の過剰な批判が大半を占める印象だ」

「ただ、私が思うに、このディストピアに生きる当事者たちの狂気や抵抗をもっとアクションとして作品に盛り込んでいたら、より多くの読者のシンパシーを獲得できたはず。」

松浦寿輝
「生成AIの言語には、徹頭徹尾「人間そっくり」だが、同時に徹頭徹尾「非人間的」でもあるという怖さがある。主人公の名前自体が牧名=マキナ=機械であるこの小説の「地」の文そのものにそもそも何やら不穏な「非人間性」が漂っており、人間と人間が建造したこの世界に対する作者の醒めた批判的自意識が感知される。」

「フーコーが分析した「一望監視システム」の刑務所は中央に監視塔がそそり立ち、周縁に囚人房が配されていたが、作者はその真逆の異常空間を構想し、現実社会を風刺的に撃とうとしている。」
「詰め込まれた観念の重量に比して、リアリティのある細部が希薄なのが物足りないが、そのこと自体がしかし、九段氏の小説作法の個性的な持ち味なのかもしれない。」

山田詠美
「硬質でAIっぽい文章が続く中、時折、抒情的なパートが魅力的に浮き上がる。〈葉の一枚一枚の音が、翻訳されるのを待っている秘密のメッセージに聞こえる〉とか。世界的建築家のサラ・マキナさん、哀しくて憐れでチャーミング。東京都知事にも読んでもらいたいこの発想。同情塔へのパス、欲しいです。」

平野啓一郎
「私が推したのは、『東京都同情塔』だった。バベルの塔の神話を主題に、言葉と物と関係の混乱とあるべき理想とを、自ら構想中の塔と同化するように倒錯的に模索する女性建築家の造形が冴えており、また、彼女が、まさに政治的に正しく、明確で冗長な言葉で現実の「全地の表」を覆い尽くそうとする「文章構築AI」と呼応し合う構造は犀利だった。」

「前回候補作が太宰作品を更新したように、本作は三島由紀夫の『金閣寺』の影響が顕著で、しかもそれをほとんど感じさせないほど、荒唐無稽ながら力強い斬新な世界を構築している。ザハ・ハディッドの新国立競技場が建っている世界というパラレル・ワールドの設定も蠱惑的で、さらにはバベルの塔と「同情塔」という、すべてが現実にはアンビルドである三つの建築が、この虚構世界を支えている光景には、幻惑的な構造計算がある。新しい才能による圧倒的な受賞作だった。」

奥泉光
「旧約聖書に即して考えれば、言葉が乱された状態は状態は人間存在の条件であり、異なる言語を持つからこそ、互いに「対話」を通じて世界を想像していくことが可能になるわけだが、東京都同情塔に象徴されるこの日本では、生成AIがなすような言語の平準化が押し広がり、人間は対話性を失い、まさに世界がばらばらになりつつある。これは現実に起こっている事柄であり、作者の批評性が光る。ただ近未来SF風の枠組を用いつつこの文体で書くなら、犯罪者が「幸福に」暮らすという塔の具体的な成り立ち、仕組みについても描いてほしいとの些かないものねだり的な感想を抱いたものの、受賞作にふさわしい緊密な質感を備えた作品だと評価した。」

吉田修一
「ある意味、傷つかなかった東京を描くことで、現実の傷ついた東京を浮かび上がらせる。作者の考えや思いを一方的に押しつけてくるようなくるようなものが多い新人作品の中にあって、本作のキャッチーな舞台設定や登場人物たちといったエンターテイメント性と批評性とのバランスが大変良く、作品の中に読者の遊び場がきちんと用意されている。おそらくこれは作者と登場人物(特に主人公の建築家)との距離感のバランスがよいためで、何かを押しつけられるような感覚なく、読者は自身の想いや声が作品の中にも届くような気がするのだと思う。」

川上弘美
「「東京都同情塔」の作者も、書きながら、いろいろ、考えたのだろうな、と思いました。なぜなら、小説の言葉が、文章が、読者であるわたしに、よかったらいろいろ考えてみて、と語りかけてくるからです。「考えてみて」の先には、正解はありません。なぜなら、作者は正解をだしてほしいのではないからです。作者はたぶん、ただ、考えてほしいのです。作者と違う考えでもいいし、いっそのことまったく関係ないことを考えるでもいい、でも、考えてみて、と。すっきりしない時間に耐えて、この小説を結実させた、作者の小説完成欲の強さに、たいへんに惹かれました。一番に推しました。」

堀江敏幸
「ザハ・ハディドの国立競技場と東京都同情塔。二重の仮定の上に立つ一対の世界には、鉄筋コンクリートの重さがない。紋切り型の言葉の牢獄を前に、「私自身が外部と内部を形成する建築」だと建築家の自己認識が鈍い光を放つ。近未来ではなく、現代日本を地上百数十メートルから見下ろした虚ろな緊張感が読後に残る」

出典:『文藝春秋』2024年3月特別号

 否定的な意見もいくつか見られるが概ね好評、一部の選考者からは絶賛といったところか。選評の中で「批評性」という言葉が幾度か登場していたので、それを検索してみるとしよう。

〘名〙 事物の善悪・是非・美醜などを評価し論じること。長所・短所などを指摘して価値を決めること。批判。

出典:精選版 日本国語大辞典

 さて、簡単に言えば批評とは価値、評価を論じ決めることと捉えることができるが、この作品のどのようなところに「批評性」があったか? まず吉田修一氏の「ある意味、傷つかなかった東京を描くことで、現実の傷ついた東京を浮かび上がらせる。」という言葉から考えてみる。これはつまり、傷つかなかった東京=ザハ・ハディドの国立競技場が建たなかった東京というパラレルワールドを見せることで現状の東京=日本がどれほどまでに傷ついているかを考えていると思われる。2020年東京五輪といえば、スポンサー契約をめぐる汚職事件が報じられ、国内での印象はあまり良くない。おそらくザハ・ハディドの国立競技場が建設されていようともこの未来だけは変わらずに報道されていたように思う。
 それでは東京の街や駅中の広告に目を通してみよう。「優しい言葉」「誰の耳に入っても聞こえの良い言葉」というものが散乱しているように見える。「ポリコレ」や「コンプライアンス」といった政治的正しさによって矯正された言葉だらけだ。そしてそれを受け入れ、使いこなす日本人……この現状を吉田修一氏は「傷ついた東京」と表現しているのではないだろうか?

 そしてそういった日本人の特性を「非人間的」「機械的」と捉え「作者の醒めた批判的自意識」と認識した松浦寿輝氏。つまりここで語られる「批判性」とは、「作品によって現実の現状を浮き彫りにさせる風刺的作風」のことを言っているのではないかと思う。主人公・牧名沙羅は自分の中で言葉を作り出すがそれをAI風に他者の言葉から継ぎ接ぎし「優しい言葉」に変換している。一見優しく、聞こえの良い言葉に見えても、どこか心の通っていない「機械的」な言葉に見える。Chat GPTによってAIが徐々に普及し始めている昨今において、このような作風が評価されたのではないかと感じる。

 松浦寿輝氏は他にもフーコーが分析した「一望監視システム」にも言及している。知らない人もいると思うため説明しておくが、これはイギリスの思想家ジェレミー・ベンサムが考案した「パノプティコン」というシステムで、それをフーコーはこのように分析している。

原理はこうです。周辺には環状の建物、中心には塔。塔にはいくつかの大きな窓がうがたれていて、それが環の内側に向かって開いています。周辺の建物は独房に分けられ、独房のおのおのは建物の内側から外側までぶっとおしにになっています。独房には窓が二つ、一つは内側に開かれて塔の窓と対応し、いま一つは外側に面して独房の隅々まで光を入らせます。そこで、中央の塔には監視者を一人おき、おのおのの独房に狂人、病人、受刑者、労働者あるいは生徒を一人入れればいいのです。逆光の効果により、周辺の独房に閉じ込められた小さなシルエットが光の中に浮きあがっているのを塔からとらえることができます。

ミシェル・フーコー伊藤晃訳「権力の眼」 

 上記の言葉を見ればわかる通り、本作品に出てくる「同情塔」=シンパシータワートーキョーはこの逆になっており、犯罪者は塔の外側に住む人たちを自由に見下ろせることができ、とても皮肉が効いているように思える。

平野啓一郎氏の選評——『金閣寺』と『レ・ミゼラブル』を踏まえて

 芥川賞選評者の中で最も核心をついていたのは平野啓一郎氏だと私は思う。彼の選評の一部「本作は三島由紀夫の『金閣寺』の影響が顕著で、しかもそれをほとんど感じさせないほど、荒唐無稽ながら力強い斬新な世界を構築している。」から考えていきたいと思う。

『金閣寺』は三島由紀夫の代表作の一つである。概要を短くまとめるとこうである。金閣寺の美に魅入られた少年が紆余曲折あり、金閣寺を燃やす。これだけでは本作品との接点が見出せないと思うので、解説していこう。

 まず「マックス・クラインの記事」に『金閣寺』から引用したテキストがあるので、それを見ていこう。


ユキオ・ミシマの『金閣寺』に、「認識の目から見れば、世界は永久に不変であり、そうして永久に変貌するんだ」という一節がある。それに対して、主人公だか、主人公でない方のサブキャラクターだかが、「世界を変貌させるのは行為なんだ。それだけしかない」と返答するのだが、認識と行為の両側からの挟み撃ちで世界を変貌させまくっているのが、このトーキョートドージョートーなのである。吃音コンプレックスの青年にも放火を断念させるほどの圧倒的な美に私はしばし打ちのめされて絶句した。

九段理江『東京都同情塔』

 吃音コンプレックスの青年とは、『金閣寺』の主人公のことを指している。さてここからは私の個人的意見も交えて、上の言葉を考えていきたいと思う。
 まず一文目の鉤括弧「認識の目から見れば、世界は永久に不変であり、そうして永久に変貌するんだ」であるが、「認識の目」というのは「外界」のことではないかと思っている。というのも『金閣寺』には「外界と内界」といった二項対立を意味する言葉が幾度か登場する。外界とは主人公から見た外の世界、つまりは他者であり、それは「世界に存在する私以外の人々の眼差し」や簡単に言えば「世間の目」とも換言してもいいだろう。そして内界とは、私の心の中、と捉えることができる。一文目は「世界に存在する私以外の人々の眼差し」から見れば「世界は永久に不変であり、そうして永久に変貌するんだ」と言っている。もっとかみ砕けば、「世間の目/世間からの眼差しは相も変わらず、そして永久に変わり続ける」ということだ。
 念のため、直接『金閣寺』から引用しよう。説明しておくと、この言葉は作品の主人公とその友人柏木との対話の一部であり、主人公は吃音症で柏木は両足の内翻足(足の奇形の一種)であり、両者ともに身体的なハンデを背負って生きている。彼らの友情や交わされる言葉はこれらと共有した仏教観を背景に語られる。

「俺は君に知らせたかったんだ。この世界を変貌させるのは認識だと。いいかね、他のものは何一つ世界を変えないのだ。認識だけが、世界を不変のまま、そのままの状態で、変貌させるんだ。認識の目から見れば、世界は永久に不変であり、そうして永久に変貌するんだ。それが君の何の役に立つかと君は言うだろう。だが、生を耐えるために、人間は認識の武器を持ったのだと云おう。動物にはそんなものは要らない。動物には生を耐えるという意識なんかないからな。認識は性の耐えがたさがそのまま人間の武器になったものだが、それで以って耐えがたさは少しも軽減されない。それだけだ」
「生を耐えるのに別の方法もあると思わないか」
「ないね。あとは狂気か死だよ」
「世界を変貌させるのは決して認識なんかじゃない」と思わず私は、告白とすれすれの危険を冒しながら言い返した。「世界を変貌させるのは行為なんだ。それだけしかない」

三島由紀夫『金閣寺』

私の言葉で言い換えると世界の変貌のイニシアティブは世間が握っており、そういった世間の目から見れば世界は不変(世界は終わらない)であり、そのままの状態で変貌する(諸行無常という言葉がある通り、世界は変わり続けている)ということだと読んだ。実際、吃音症と内翻足で人々から奇異の目で見つめられてきた二人の会話だと思えば、私の推察もそこまで的外れではないのではないだろうか。

 二文目に行こう。「世界を変貌させるのは行為なんだ。それだけしかない」とある。ここにある「行為」とはその言葉の通り、私たち人間の行動である。ただ、『金閣寺』由来の「外界と内界」の理論を用いると、人間の行動とは、「心の中に考え抜いたこと」の発露と捉えることもできる。

 さて、問題は「認識と行為の両側からの挟み撃ちで世界を変貌させまくっているのが、このトーキョートドージョートーなのである」の一文にある。ぱっと見意味がわからなかったが、上述した言葉をパズルのように組み立てると意味が見えてくるのではないか? 「犯罪者に同情しなさい」と言われてすぐに同情できるほど世界は簡単ではない。しかし認識=同情塔、行為=そのシステム、でもって世界を変貌させていると読むことができる。

 私がこの考えに至ったのは、映画「レ・ミゼラブル(2012)」を見た時だ。ヒュー・ジャックマン演じるジャン・バルジャンが娼婦に堕ちたアン・ハサウェイ演じるファンティーヌを救い出し、その娘コゼットの父親になるストーリーには涙を禁じ得ないのだが、心の狭い私はつい思ってしまうのだ。「他にも同情されるべき人はいるのではないか」と。
 実際、ファンティーヌはジャン・バルジャンに育てられ美しい淑女になり、家柄の良いマリウスという青年と恋に落ちて最後には結婚する。これは幸福そのもののように思えるし、それを否定するつもりはない。しかし、同情されなかった、零れ落ちた人々はより一層悲惨なのではないかと考えてしまった。
 しかし同情塔は、そういった私の拭いきれない不信を解消してくれる。ジャン・バルジャンの「行為」だけでは救い出せなかった人々を、そのシステムと「認識」を司る塔によって救い出せる。まるでユートピアのような社会なのだが、作品はそれをディストピア風に描いている。読んでいた当初、同情塔の建設は現実に当てはめると「やりすぎ」と思ってしまったがそうではない。三島由紀夫の『金閣寺』とヴィクトル・ユーゴーの『レ・ミゼラブル』を透かしてこの作品を読むと、それが問題の解決策に見えてきてしまうのだ。このことを平野啓一郎氏は「荒唐無稽ながら力強い斬新な世界を構築している」と評したのではないかと考えている。

個人的見解

 選評の中に「批評性」という言葉が幾つかあったように、この作品は批評されることによって批評者それぞれの「可能性」を提示してくれる作品だと思う。例えば、同じ作品を10人の人が読んだとして、感想が皆同じだったら面白くないだろう。まず初めに九段理江氏が「可能性」を提示し、芥川賞選評者がそれを読んでまた新たな「可能性」を提示してくれた。次は一般の読者が「可能性」を提示していい、と言ってくれているようだ。かく言う私もこの記事の中でできる限りの「可能性」を提示してみせたつもりだ。この記事を読んでくれた読者の中に新たな「可能性」を秘めている人がいる場合は気軽にコメントしていただけると私も嬉しい(応援コメントも嬉しいです)。

最後に

今回の記事は長々となってしまい反省しています。もし記事の改良点・アドバイス等があれば教えて頂けますと大変嬉しいです。
今後も不定期ではありますが、芥川賞受賞作品の研究・批評・感想を書いていこうと思います。引き続きよろしくお願いいたします。

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