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分析

 観察、考察、推察、洞察はわたしの精神生活を支えているであるが、先日A氏から「アナタは考え過ぎるね」という批評をもらった。これと同じようなことを他の人からも言われたことがある。わたしが物事を必要以上に深く追及し、その結果、自分を窮地に追い込んでいるというのである。
 わたしにすれば、考えなければ生きている意味がないと思えるので、A氏からそう言われたときにもそのように答えた。彼の言わんとするところは「過ぎたるは及ばざるが如し」であるらしかったが、彼はさすがにわたしに気を使ってそこまでは言わなかった。あくまでも「俺から見ると…」という主観的感想であることを強調して、絶対的なものではないということでわたしを思いやってくれた。
 彼がそう思ったのは、おそらく彼に書いた何度かの手紙からそう解釈したのではないかと思える。わたしの彼への手紙はいくつか同じようにプリントして保管してあるが、その文面はわたしの文章活動の中ではもっとも高い位置においても遜色のないものであるはずだと思っている。それは、彼がいろいろな本を読む人であるし、また先に書いたように「いいもの」を見分ける目を持っているであることよく知っているからである。そういう人にたいしてベタベタした女々しい手紙など書くのはわたしの誇りがゆるさない。そう思っているものだから自然に文章が固く学問的になり、さらにそれだけではナンだからと間にちょっとした皮肉も入れる。彼がこれにたいして今まで少しでも感想をもらしたことかばあるとすれば前に書いた「手綱を取るのがむずかしい。うかうかしてると振り落とされる。」ということばだけであって、そのほかにはひとことしてわたしに伝えていない。しかし、わたしはこれまで彼の心にかなりの深手を負わせるだけのことばを、必ずしも悪い意味をもってばかりでなく書き送っていると確信している。彼が感想を言わないのはそれがキイていることの証しにほかならないのではないか。
 さて、そういう類いの文章を、彼に貸したままになっていてまだもどって来ないカウンセリングのテープの請求を入れて彼に渡した。彼はこのテープもヘレン・フィッシャーの本も自分では返したつもりでいたらしいことが先日の話でわかった。
 この折には彼と四時間足らずの間いっしょにいたが、そのうちの二度だけ、それもほんの数秒間だけFC(Free Child)の面を見せた。 1度目は水面に見入っていたわたしがまったく気づかずにいるうちにこっそりと近づいてわたしをびっくりさせたことであり、もう一度はわたしに聞かせるというよりはむしろ自分自身に言い聞かせるように「よぅし、今年は登るぞぉ」とつぶやいたことである。彼はこの夏、穂高山に登るために筑波山で訓練を重ねている。
 エゴグラム・チェックリストでは彼のFCは極めて低く、わたしのように気のゆるせる人間といっしょにいるときでさえ彼はなかなか自分を外へは出さない。それは彼が用心しているからというのではなく、それが彼の自然のままであり、おそらく彼の生い立ちからの事情に大きく力を受けた結果だと思われる。たずねてもきっと彼に話さないに違いない。
 このときの彼の見せたFCは、別の見方をするならば「ふだんはぜったいに他人には見せない面を、わたしといっしょにいるときに二度もみせた」と言えないこともない。彼はFCのような「子供じみた」行動は最も軽蔑している種のものであり、それを自分が現すのは自己嫌悪のもとになると考える傾向がある。
 わたしが考え過ぎだという彼の意見にたいして、わたしは考えることが好きなので、そればすべて人間を知るためのプロセスであると思うということと、彼にとって囲碁がおもしろくたいせつなのと同じようにわたしには考えることがおもしろくてたいせつなのだし、さらに共になかなか一流になれないという共通点のあること、そしてこのFCを「言わば短い時間のうちに二度も見せた」と言えないこともないと書き連ねて彼に渡してあった。
 それから四、五日したお昼休みの時間、彼はわたしのところへ来た。手にはスーパーの袋にはいったものを持っていた。わたしが立ちあがって近づく と、彼は「失礼しました」と言ってその袋を手渡した。「あったの?テープ」とにっこりして聞くと、彼はややむずかしい顔をしてうなづきそのまま去った。
 袋の中にはテープのほかにわたしが彼のもとに置いてきた四冊くらいの本も入っていた。彼が読んだ形跡はまったくない。彼は要するにそういう人間なのである。わたしはこの時点で彼にたいするかすかな勝利感とかなりの部分を占める敗北感に襲われた。
 彼には情緒的な対応はなんの意味も持たず、そうかと言ってまるきりビジネスライクでは味気なく、そのどちらでもない非常にむずかしい対応が要求される。わたしはふだんはあまり考えない彼の奥さんについて考えざるを得なかった。
 ふつうの女性では彼について行くのはまず無理である。思いきり利口なのか、そうでなければ思いきりバカな人だけが彼の伴侶として合格することができる。中途半端に常識を振りまわすような女性ではとてもじゃないが勤まらない。そして、どうやら彼がことばの端々にもらす話ではまさに常識人らしいことがうかがえる。彼がそういう奥さんといかに「諦めの境地で共に生活しているか、彼の性格から推して明らかである。
 性格は変えられるものではなく、ただそれを受け入れるしかないことはわたしの体験からいっても「自明の理」であるらしいから、問題は彼か彼の奥さんか、どちらかがその「理」に気づくしかないということである。その可能性はA氏のほうにうんと少なく、たとえばキリスト教でいうところの「奇跡」でも起きないかぎり彼は一生その生きかたを変えることはないであろう。その意味ではこの可能性はオール・オア・ナッスィングとも言えるものである。彼は決してバ力ではないから(世間的、常識的な意味ではバカと呼ばれる率が高いが)この心理的なカラクリに気づいて自分を解放できたときには必ず円満な家庭につくり変えることができるはずである。
 彼の「失礼しました」というひとことは、 わたしにたいする対等であると同時に一歩距離を置いた言いかたであり、それは自分の思い違いを詫びることばとしての要素よりも大きい部分を占めていると思われる。すなわち彼はわたしにたいしては素直に非を非と認めるだけのゆとりを持つことができるということになる。このことは職場からときどき聞こえて来る彼の評判とはかなり違っていて、わたしはどちらを信じるかと言われれば彼の本質はわたしのような人間にたいするときにだけ表れるものだと考える。
 いくら変人と言われても、彼もまた人の子であって「自分の存在をOKと認めてくれる人間にはそのように応じることができるのである。これがわたしだけでなく、もっとほかのたくさんの人との間にも通用することを悟ってもらいたいと思って彼にカウンセリングのテープを貸したのであるが…。

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