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見え方についての考察

 地上から山や大きめな建物を眺めたときの感じ方と、逆に山頂や展望台から眺めたときの感じ方のギャップが気になっていた頃があった。山の上から、いつも住んでる街を見下ろしたときに、いつも見ている山と住んでいる家の大きさは当然変わらないはずなのに、どうして山の上から眺めたときはあんなに小さく見えるんだろう、という具合に。ある日、職場先から近所の山々を眺めていたときに思い浮かんだ自分なりの答えを、ここに記録しておこうと思う。

 ものの見え方には光が大きく関係しているようだ。ものが発する光またはものが跳ね返す光がカメラでいうとレンズの役割をする角膜・水晶体を通り、フィルムの役割をする網膜に映像として映し出される。それが脳に信号として伝達され、私たちは景色というものを認識することが可能となる。また、遠近感覚には光の角度が大きく関わっているようだ。観察対象が近ければ近いほど光の進入角度は大きくなり、遠ければ遠いほど小さくなる。これにより、近くにあるものは大きく映し出され、遠くにあるものは小さく映し出される。私たちはこれらを無意識のうちに経験的に学習しているため、遠くにあるものは小さく見え、近くにあるものは大きく見えると認識している。

 しかし、街から山を眺めたときと山から街を眺めるときではその距離に大差はないはずである。それなのにどうして見え方・感じ方が異なるのか。色々考えていると、観察対象に対する認知の違い、もっと言うと部分と全体の捉え方の違いではないかという答えにたどり着いた。

 例えば、山を眺めるときに木々の一本一本、あるいは高層ビルやスカイツリーを眺めるときに一つひとつの窓や鉄パイプを意識する人はどのくらいいるだろうか。おそらく、植物生態学や建築構造等の専門家は別として、多くの人は山を1つの山、高層ビルやスカイツリーを1つの構造物として眺めているのではないか。しかし、山頂や展望室から眺めるときは、一面に広がる街の景色の中から、自分の住む場所やいつも使っている駅や公園を探そうとする。

 つまり、街から山やスカイツリーを眺めるときには対象物を1つの全体像として認知しているのに対し、山頂や展望室から街を眺めるときは眺望景観という全体像の中から家や駅や公園という小さな部分を探そうとしているわけである。光の角度的には変わらないため、例えば城下町の一角から天守閣付近を散策している人に着目して眺めたときと、天守閣付近から城下町を散策する人に着目して眺めたときでは、大きくは変わらず、どちらも部分に着目しているため同じように散策する人は小さく見えるはずである。しかし、見下ろす高さが高くなればなるほど、視認範囲は限りなく広くなり、境界も不明瞭になる。ゲシュタルト心理学の言葉を借りると、限りなく広がる街という地=背景のなかから、散策者という小さな図=焦点の対象を探そうとするため、小さく感じるのではないか。

 風景を眺めるときに、図と地、部分と全体を交互に意識して眺めてみると、何か新しい発見があるかもしれない。

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