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気が利かない、は欠点ではない

どうしてあの人は気が利かないんだろう?とイライラしたことはないでしょうか。私はあります。

たった今、自分の正義感と戦いました。

◯発端の出来事

電車の中。3〜4人座れる席を無視してドカッと座り、独り占めしている若い青年がいました。

スーツ姿で、スマホに夢中。

そこへ若いお母さんが、小さな子供の手を引いてやってきました。

二人並んで座りたそうでしたが、青年が中途半端に独占しているので、お母さんはとりあえず、すき間に子供だけ座らせました。

それを見ていた私は、モヤモヤ、イライラ。

「何でこの青年は、目の前に立つ女性が見えないの??何でわからない?」
「女性が座りたいって思ってるとは思わないの?」

青年の態度はわざとかなぁ?と思いましたが、スマホに夢中で本当に気付いてないようでした。

昔から、このように気が利かない人にイラッとします。私にはそういう傾向があります。

◯元同僚の場合

彼の仕事のフォローで、私が書類を郵送しました。

そのときの、気の利かない言葉のチョイスにザワザワ…

「あ、郵送しておいてくれればいいです
「住所は、〇〇で、いいです
「担当者は、スズキさんでいいです

曖昧で、こちらから詳細を聞かなければわからない指示の出し方にイライラ。

しかも「〇〇でいいです」じゃなくてさ!

あなたがお願いしてるんだから、語尾は「お願いしますでしょう!」と思いながら対応しました。

繰り返しそのようなことがありました。

「あ、その仕事、そっちでやってくれていいです」私は「ん??」「その仕事お願いします」でしょうと。

気の利かなさが言葉に詰まってる…と。

◯だろうVSかもしれない

今週、運転免許の更新時に「〜だろう運転」ではなく「〜かもしれない運転」をしましょうという講習を受けました。

〜だろう運転は“きっと大丈夫に違いない“と勝手な確信だけで進める運転で、「歩行者はいないだろう」「対向車もいないだろう」

〜かもしれない運転は“もしかしたら何かある“可能性を考えながら慎重に進める運転で、「もしかしたら歩行者がいるかもしれない」「このバスの影から二輪車が飛び出してくるかもしれない」

だろう運転は危険ですよという話でしたが、この両者、さっきのことに当てはまるかもしれません。

◯考えが及ばないだけ

電車の青年は「自分一人くらい好きに座って大丈夫だろう」という「だろう」が強く「ひょっとしたら、席に座りたい人が自分以外にもいるかもしれない」と思えていないのです。

だろう→かもしれない、と思えないのは、、、考えが及ばないだけです。

元同僚も「手伝ってもらっても問題ないだろう」という確信で「だろう」が強く「もしかしたら、この人はすごく忙しい中で手伝ってくれたのかもしれない」という可能性を考えないのです。

前回書いた、掃除しない父に憤慨していた兄。

お風呂場が汚いことを怒っていました。だろう運転の典型。「風呂場くらい掃除できるだろう。何でできないの?」

それを聞いた私は「かもしれない運転」です。

「ひょっとしたら、お風呂場の掃除なんてやったことなくて、そもそも掃除という概念がないのかもしれない」「やり方を知らないかもしれない」「父には、これが汚い、と認識がないのかもしれない

青年も元同僚も兄も、ただその考えに及ばないだけなんだと気付きました。

気が利かないんじゃない。

ただその考えに至らないだけだから、欠点ではないのです。

できれば人類皆、持っていて欲しいスキルですが、みんなが一緒じゃないのがこの世のいいところ。

彼らは「かもしれない」という考えがただ思いつかないだけ。そういう人もいる。イラつくのはやめようと思いました。

これも結局は、他人に期待しないということに繋がりますね〜!



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