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もうじきX'mas🎄✨思い出すのは遠き日の女学校時代。あれから半世紀。時代は変わった!我が母校に思いを馳せて。。。🥺💘

12月に入ると急に気持ちまでも慌ただしくなる。一年の締めくくりの月である12月は師も走ると言われる師走。
我々日本人はクリスチャンでもないのになぜか何でもめでたい事やお祭り事は取り入れて独自の文化と融合させる!

一つの宗教に拘ることなく、人類友愛の精神でどんな宗教の人たちとも交わり共存する民族。元々日本には天孫降臨の天津神や八百万の神々がいて自然にも神が宿るという協調の精神が宿っている。

日本人のX'mas🎄✨のメインイベントと言えば、ケーキ🎂を買ってチキン🍗やご馳走を食べてはしゃぐお祭りのようなもの‼️

そう言えば、私もX'mas🎄✨に大いに関係があるプロテスタント系の田舎のミッションスクールに通っていた!

その学校は中高一貫の女子高で田舎では130年の歴史を持つ由緒正しき学校だった!
朝は毎日礼拝があり、昼食時には宗教部の生徒(ほとんど洗礼を受けたクリスチャンの生徒)が食事の前に感謝のお祈りをしその後皆が『アーメン🙏』と言ってから食事をした!

そしてX'masの時は全校生徒が体育館に集まり、演劇部の生徒が馬屋で生まれたイエス・キリスト生誕のお芝居をし、皆で何曲もX'mas讃美歌を歌わされた!
最後には当時一人¥300のX'masプレゼント🎄🎁✨を用意させられ、サンタ🎅に扮した教員からランダムにプレゼントを渡された‼️

当時はほとんど皆、いい加減な物をプレゼントに買っていたので当然貰うプレゼントもろくなものが入っていなかった😱💦

まぁ、それも今になったらいい想い出。私が卒業👩‍🎓した学校は石坂洋二郎の小説『若い人』の本当のモデル校である弘前学院聖愛高等学校。

若い人』(わかいひと)は、石坂洋二郎の長編小説。
1933年8月から1937年12月まで『三田文学』に断続連載され、石坂の出世作となった。1937年、上下巻として改造社から刊行された。
石坂が郷里の弘前で見聞したミッション系女学校(我が母校である弘前学院聖愛高等学校)での実話に基づいているが、関係者に迷惑が掛からぬよう、小説の舞台は北海道函館のミッションスクールとした。それは今日まで函館の遺愛学院の名誉となっている。

wikipedia参照より

昔は女学校だったが2000年から男女共学になっていて今は地元では進学校になったらしい。
私が通っていた当時の校舎は昭和4年(1929)に建てられた西洋風の古い建物で街のど真ん中の坂道の上に建っていた!

1929年(昭和4年)に建てられた校舎
当時学校は大戦の時の空襲に備えて校内の備品・器具の疎開がはじまっていた。弘前市は防空防火のため、建物疎開を計画したが本校の建物を取り壊し広い道路とすることが含まれており、学校側は学校を軍需工場とする計画もそえて取り壊し中止の歎願を繰り返した。最後の陳情予定は8月15日午後1時。この1時間前、戦争が終わったという。幸運にもこの校舎は昭和49年3月まで取り壊されることなく45年間生き残った!
昭和49年3月、私はこの校舎の最後の卒業生となった!
その後校舎は取り壊されて弘前の一等地から土地の安い市街地に学校は丸ごと引っ越した‼️わが校は幼稚園(現在は廃園)、中高、大学、大学院と今も存続している。


この古い校舎は趣があり、正門は1階のように見えたが実は地下1階で趣のある校舎だった!

これは懐かしい礼拝堂です‼️
一週間に一回献金があり、あのお金は一体どこに使われたのでしょう!
校長先生は牧師でどこからか分かりませんが当時派遣されていました!
今思えば、ミッションスクールでは普通の学校では体験出来ない様々な体験をし、授業料(当時は月約¥6.000でした!)を払うのを忘れると名前が払えとばかりに職員玄関の前の掲示板に名前が張り出されたり、ちょっと遅刻するとジェスローというあだ名の先生にこっぴどく怒られたり、今は何もかもが楽しい想い出。友達もみな田舎のそこそこのお嬢さんだったり、訳ありの子(二号さんの子だったり)も多かったように思う。わたしの一番の親友は2010年にガンで亡くなりましたが彼女との入ってはいけない職員用の水洗トイレに勝手に入って出てきたら先生がトイレの前で私と友人が出てくるのを待っててその時もこっぴどく怒られた😅
だって生徒用のトイレって当時はチャポンだったんですもの😱💦間違ったら跳ね返りがあったりして、、、
やはり古きよき想い出です😊💓

窓枠も全て木で今はほとんどサッシになって横開きの窓だが、当時は上下に開ける窓で渋くて中々開け閉めが大変だったがそれすら今はよき想い出に…

文化祭になると他校から男子学生が来ようものなら、物見高に女子学生たちが一斉に窓から身を乗り出して男子学生を物色した🤭🤫😅苦笑

私はそれを観ていた傍観者だった!
当時は引っ込み思案で恥ずかしがりやだった!
今の私からは想像出来ないだろうが🤭要は当時は初々しかったのです😅苦笑

開校、設立は1886年。当時はキリスト教の普及、及び女子教育のためにアメリカから宣教師が招かれ宣教師館があり、今は元あった場所から移築され、国指定重要文化財になった母校の宣教師館⬇️

「弘前学院外人宣教師館」
当時私がまだ学生の時は既に無人になっていて朽ちていくばかりの西洋館が学生食堂として生まれ変わり、よく利用したものだ!
メニューはラーメン🍜とカレーとうどんのみ。それでも皆長蛇の列をなして並び食べに行ったものだ!
中庭の小さなグランドの中にあって、中高生徒数2000名程いたのに体育館が1つ。それに小さなグランドが1つだった為、体育の時間によく弘前城の中にあるグランドを利用した!

そんなこんなのたくさんの想い出の学舎も今は移転して私が学んだ校舎はなくなってしまい、想い出も一緒に霞んでしまった😢

卒業後私は大学進学のために上京し、その後お見合いをして結婚。以来関西在住のオバチャンになった!

まだ子どもが小さい頃はお誕生会やX'mas会で我が家も賑やかだったが、娘も嫁いで久しく、孫も出来たが二人とも男の子👦

今は夫婦二人でのんびりと…
以前は孫のためにX'masの飾りを作ったり、あれこれしていたがもはや新しい物を買い揃える時期は過ぎ、今は断捨離の世代!
でもこの季節、何の飾りもないのは寂しいので家にある材料で私流のX'masツリーを作った✨🎄✨

無論何かを買い足すものでもなく有り合わせの材料で…
で、作ったのが⬇️の写真

なんとなく我が家もX'masっぽくなった‼️
これは以前私が孫用に作ったもの
リボンを付け縛って飾れるようにしたもの現在はわたくしのバレエの先生に差し上げました♥️
これは以前私が作ったタペストリーに差し上げる前に、自身が持っているアンティークシャネルのブローチ載せてみた
X'masツリー✨🎄✨

今年も残すとこ後ひと月足らず!
来年はまたどんな年になるのでしょう…
今年も無事過ごせたことに感謝です🙇♥。。。🥺💘






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