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ミメカタチとこころの話

幼いころからぽっちゃり体型で過ごしてきたおかげで、自分の容姿についてはコンプレックスの塊である。というか、もはやコンプレックスしかない。

夫に出会って生活スタイルが変わったのをきっかけに体重が落ちて、それ以降はややぽっちゃりですねーくらいの体型で生きているのだが、油断するとすぐ戻る。しばらく食べ物に気をつけて体重を落としては、油断して戻る、の繰り返しである。

ただ、油断、と言っていいのかは大いに迷うところで、私はとにかく食べることと、呑むことが大好きな人間なのだ。

それダメっていわれたら人生なんか楽しいですかね?と真顔で迫ってしまいそうなくらい。今のところ身体の中身は健康だし、その楽しみを油断と呼ぶのはなんだか哀しい。

言い訳です、ハイ。

幸いなことに学生時代も社会人になってからも人に恵まれ、誰かとおいしいものを食べて呑む楽しさを知った。男女問わず好きな人と食べるもの、呑むものは、たとえおいしくなくたって笑いとばせるパワーがあったりする。

ひとりだってもちろんそれはそれで楽しくて、昔からひとり時間が大好きな私だが、とくに子どもが産まれてからはひとりで過ごす時間そのものが宝物だ。

さて、去年落とした体重がまたじわじわと増えている。

きちんと測ったわけではなく身体の重さでなんとなく感じているのだが、不思議なものでそれは大抵びっくりするくらい当たっているし、そんなときは心まで重くなる。

お酒も食べ物も制限してないのに、なんだか楽しくない。おいしい!と思えない。そうこうしているうちに、仕事もだるい、遊びもだるい、なーんにもしたくない、ぜーんぶ面倒。みたいな究極にやさぐれた気分になる。ちょうどこの夏がそうだった。

もちろんその原因は体重が増えたから、だけではないのだけれど、私のコンプレックスがそうさせてしまうのだろうなと思っている。

なので、またすこし食生活を整えているのだが、わずか一週間で心がかなり軽くなってびっくりしている。

体重がそんなに急に減っているはずはないし、明らかに気持ちの問題なのだがこれがなかなかどうして馬鹿にできない。

考えてみれば、私が太っていようと痩せていようと私が大事にしている人たちは誰も気にしない。今までの人生、ずっとそうだった。私自身の価値は体重の増減で変わるものではない、という当たり前の事実がずっとそこにあるのだ。

健康に害を及ぼさない限り数字ひとつに振り回されているのは私だけなのだが、それに気がつくまでにやたらと時間がかかってしまった。

綺麗事に聞こえるかもしれないし体重ひとつに一喜一憂してきた私が言っても全然説得力ないよね、と我ながら思うのだが、やっぱり人にとって大事なものは見た目ではなく中身だと思う。

太ろうがヨボヨボに老いようがその変化ごと自分をまるっと肯定できる心のほうが大事だし、自分を肯定できる心はほかの誰かの心も肯定できる優しさを持てるのではないか、とこの歳になって思っている。

だから、今の私が体重を落としているのは自分を好きでいるためなのだ。細い身体とか周囲からの賞賛とかを得るためではなく。

そんな経験から日頃から子どもたちにはたとえ褒め言葉でもうかつに人の外見について口に出すな、と口酸っぱく叩き込んでいるわけだが、先日ぼよんと弾みだした私のお腹を叩いて子どもたちが「たいこ!」と遊んでいた。

いやだから君たち…と言いかけたところで長男が「ママにしか言わないよ?ママだから言うんだよ〜当たり前じゃん」と胸を張る。胸を張るほどのことでも…と思いながら、それが「当たり前」な世の中だといいなあとしみじみ思った。

人は人、自分は自分。

これが当たり前に通用する世の中だったら、どんなにみんな生きるのが楽しくなるだろう。ラクになるだろう。

そんな未来を、夢見ている。

小雨の日曜日、隣の駅の商店街で縁日をやるという話を聞きつけて友達一家を誘ってランチがてら出かけた。ら、実は縁日は夕方から開催とのこと。

あららどうしましょ、と思っていたら近所のシェアハウスに住む若人たちが子ども向けのワークショップを開催してくれていて、自分たちのシェアハウスでオリジナルの作品を作らせてくれたり、ハウス内を案内してくれた。

これがとても楽しくて、人種や職業、年齢もバラバラな人たちと話しているといかに自分が狭い世界で生きているか痛感する。彼らはとにかく他者の価値観に寛容で、ああそうそうこんな感じの未来がいいなあと思った。

そして、歳を重ねてもそれをいいなあと思える自分でいたい。

そんなことを思う、夏の終わりである。




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