この世の理に救われて
山あいのキャンプ場は、日が昇るのが遅い。
山のてっぺんが薄ぼんやりしてきたなあと思うと次第にそれが力を増してきて、徐々に山の下のほうに向かって朝日が伸びていって、気がつくと自分の足元にも影ができている。
明け方、あまりにもヒグラシが大合唱するものだから早々に目が覚めてしまった。日が昇る前とはいえあたりはもう充分明るいのだが、子どもたちも友達一家もまだ夢の中である。
肌寒いのでお湯を沸かしてカップスープを飲みながら世界が朝を迎えるのをひとりぼんやり眺めていたら、ものすごく唐突にああそうか、こうやってゆっくり夜から朝になるんだ、と当たり前のことに気がついた。
ここ最近、とくに子どもが産まれてからの私にとって、朝と夜、というか一日の時間の流れは明確に区切りがある。
朝に目覚めてからほぼ一日中決まった動きをして、夜も毎日同じような時間に寝る。眠っているあいだに、世界は夜から朝になる。真冬はカーテンを開けてもまだ真っ暗だけれど、家を出るころには明るくなっている。
だから忘れていたんだと思う。
世界がこんなにゆっくり朝を迎えていたことを。
長男が3歳くらいのときから家族でキャンプするようになり、長男10歳末っ子6歳になった今は昔に比べたらそれはもう段違いにラクになった。はっきり言って別世界である。
ただ、それにしたって子連れのキャンプは正直にきっぱりはっきり申し上げてアウトドアで自然満喫、たっぷり癒されて帰りましょう、とは絶対にならない。というか、できない。
暑さや寒さ、雨や風に対応すべく気を配り、衣食住を管理し、怪我や虫に怯え、川で遊べば大人1人につき子ども1人を完全監視下に置き、トイレや皿洗いのたびにてくてく歩く。
家にいたらいいじゃん、とツッコまれそうだし自分でもそう思う。実際、キャンプ前日の私は面倒臭さ半分、子どもたちのためだという使命感半分くらいでできている気がする。
それでも行くのはなぜか、と聞かれるとうまく説明できないのだが、強いていえばこんな瞬間があるからなんだろう、と思った。
安心で安全、そして快適な生活は日々を支えてくれる。生きるためにやらねばならないことを、できるだけストレスなく遂行できるように整えてくれる。
ただ、それだけでは忘れてしまう何かを思い出すために、私はキャンプに行くのだと思う。
たまたま早起きしたらゆっくり世界が朝になって、それがこんなにホッとすることだなんて想像もしていなかった。
私が毎日バタバタ走りまわっていても、悩んだり怒ったりしていても、生きてさえいればあの朝はやってくる。ゆっくりと、なんの感情もなく、淡々と。それは何より幸福で、救われることのように思える。
起きてきた子どもたちにもスープを作ったりコーヒー豆を挽いたりしていたら、あっという間に賑やかになった。それもまた幸福な一日の始まりだ。
我が家のキャンプシーズンはまだ始まったばかり。子どもたちはおとといに戻りたい〜楽しかった〜10泊したいーと大満足の帰り道で何よりだったが、10泊は勘弁…と車内のエアコンの涼しさに感動する母であった。
安心で安全、快適ないつもの毎日。
それが待ち遠しく思える、それもまたキャンプの良さに違いない。とりあえずは灼熱の我が家を快適に戻すべく、片付けをがんばろうと目に眩しい青空を見上げている。
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