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末っ子@5歳(私信)

末っ子が5歳になった。

我が家では末っ子と呼んでいるが、次男はお空なので傍目には単なる下の子である。それはこの際横に置いておくとして、この末っ子はひとことで言うと、非常に手強い。

私を筆頭として夫も長男もわりと感情表現がニュートラルな人間なのだが、そこに彗星の如く現れし末っ子はとにかく感情表現が豊かである。濃淡くっきり。ネガポジがくるくる入れ替わる性質の持ち主である。

私を鍛えてやろうと神様が遣わしたのだな…と思い込まずにはいられない。長男が落ち着きがなく目を離せない、という一点を除いてはあまり手のかからないタイプだったのもあって、年齢離れした語彙力を駆使してゴネられると微々たる経験則などなんの役にも立たない。

頭の回転が速く、観察力も洞察力も持ち合わせている彼は、いい意味でもすこし心配な意味でもとにかく聡いのだ。

一方で、かわいいものが大好きで未だにアンパンマンは彼のヒーローだし、けれど大きくなったらプリキュアになりたいらしいし、そのアンバランスさはなんというか、本当にかわいいのである。

末っ子は帝王切開だったので、誕生日は私が決めた。正期産に入って主治医の予定と合う日で最速の日に即決したのは、できるだけ早く、元気なうちにお腹から出してしまいたかったからである。

お腹の中でお空に帰った次男がいるので、末っ子の妊娠中はとにかく不安で仕方なかった。毎日心音モニターで生きていることを確認しないと安心して眠ることすらできなかった。だから、早く出した。私のエゴによって決まった誕生日である。

もちろん、今となってはそんなことはすっかり忘れてプリプリと怒ったりなだめすかしたりしている日々なわけだけれど、ときどきふと思うのだ。あのとき聴いていた心音が、今目の前にいるのだと。ママ!と呼んでくれているのだと。

その奇跡を思うとき、まず最初に過去の自分に会いたくなる。ほら大丈夫だったよ、元気に育っているよ、安心してね、と伝えたい。末っ子本人や、周りの人たちへの感謝ももちろんある。けれどなぜか、これだけはまず自分なのだ。自分勝手だな、と思うのだけれど。

5歳、おめでとう。

たくさんおしゃべりできるところ、わからなくても一生懸命考えるところ、人の話をきちんと聞くところ、そんな君のいいところを私はたくさん知っています。

いつも周りをよく見ている君は、もうすこし大きくなって客観性を身につけたときにどうなるかな、とすこし心配です。君のいいところがいいところであり続けられるために私にできることがあるか、今から悩んでいます。

でも、それは杞憂に終わるだろう、という気もします。なんせ君は聡いから。私がヤキモキしているあいだに、そんなもの全部併せ呑んでぴょーんと飛び越していくだろうと。そうなってくれたら、母としてこんなに嬉しいことはありません。

半歩先を歩く君がふと振り返ったときに、いつもそこにいる。ん?どうかした?と何食わぬ顔で声をかける。それが私の目標です。ついていけるように、がんばります。

お兄ちゃんの育児は手探りしながら土地を開墾するような日々だったけれど、君の育児は記念碑を建てていく日々です。ひとつひとつにこれで終わりだよ、今までありがとうと、終わりがくるなんて思ってもいなかったあの頃の自分と乾杯するような、そんな感じです。

君の名前には「朝」という漢字を使いました。

「朝」には「十月十日」がいます。

お兄ちゃんたちはこんなふうに育ってくれたらいいなあ、なんて思いながらそれぞれ名前を考えましたが、君に関しては十月十日を超えて無事に産まれてきてほしい、本当に待ち望んでいたんだよ、あなたはこの家の希望だったんだよ、と、それだけを込めた名前です。

誕生日も、名前も、私のエゴに囲まれて産まれてきた君。元気に育ってくれて本当にありがとう。
これからも私を鍛えてください。何があろうと私は君が大好きで、味方です。

末っ子、5歳。

5年前の7月3日もよく晴れていたけれど、今日も相変わらずの酷暑、晴天である。

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