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なぜ「表裏一体」なのだろうか?

ハンカチにアイロンをかけてみよう、と思い立ったのだけれど、普段から使い慣れていない素人に、ろくなことはない。
端のほうを伸ばそうと、力任せにアイロンを押し付けたら、きれいに折り曲がった状態でプレスされた。
開いて、もう一度トライした。けれど、一度ついてしまった折り目は消えなかった。
そのとき、不思議な気がした。
「なぜシワを伸ばすアイロンで逆にシワが出来てしまうのか?」
疑問に思うほどのことではないのかもしれないが、ちょっと使い方を誤ると目的とは真逆のことが起こってしまう、そんな“あやうい”道具のことが気になった。
アイロンは、シワを伸ばすだけの道具でもなければ、折り目をつけるだけの道具でもない。相反することを一代で可能にする。表裏一体。なぜだろう?
ミスを防ぐには、伸ばすだけ、折り目をつけるだけ、それぞれの専用のものがあればいいんじゃないのか?
そんなものは作れないのか? それとも、真逆のことが使い分けられる道具のほうが実は便利なのか?
 
考えてみれば、車だって、刃物だって、紙一重の差で便利な道具にもなれば、たいへんなことをもたらす物にもなる。酒は薬にも毒にもなると言われるし、健康と病気は同じ地平に存在している。
物や道具だけじゃない。関わり方だってそうだ。
「絆」はとても温かくて優しい人間関係のように思われているけれど、「きずな」と読めばそんなニュアンスでも、「ほだし」と読めば足かせや自由の拘束などの意味になる。「絆」の一字に反対の意味がある。
でも、そんな漢字はたくさんある。暮らしの中から生まれた漢字がそうだということは、人の日常の中には、同じことをどちらから見るかによって大きく異なるものがあるということ。
ある側面だけを見ていると、反対のことがおろそかになる。車だって、酒だって、絆だってそうだ。物事には表があれば裏もある、と事ある毎に聞かされてもきた。「諸刃の刃」という言い方だってある。
なぜ表と裏は一体で不可分なのか?

私たちには、ものごとを見たいようにしか見ないという癖がある。例えば、「発展」という世界には必ず「破壊」という逆の世界がくっついて切り離せないのに、自分たちに都合の良いところに焦点を当てようとする。
利益を得る人がいれば不利益をこうむる人がいる、という出来事は至るところで見られるのに、そんなことは意識の外に追いやって暮らしている。
ほんとうは一体として存在しているのに一面しか存在しないかのように振る舞うことに慣れてしまうと、見たいように見ていることがほんとうだと錯覚し始める。「表」に疑問を抱かなければ「裏」は想像すらできなくなる。
それほど人間は偏りやすい。偏りという安心感を得たがる。右でも左でも、上でも下でも、凝り固まることで安住してしまう。
右と左を行き来する、上下を移動し続ける、そんな不安定さを嫌う。
言い換えると、自在であることから遠くにいたがる。「自由自在」という言葉は好きなのだが、現実にはそのような選択をしていない。
だから対立も生じるし、その反動での仲間意識が強くなる。これは“進化”という生き物のプロセスから見ると逆の行動だ。
そんな人間の妄想は、やはり非現実なのだ。人の脳がどれほど身勝手な考えを持とうとも、「きずな」だけ、「伸ばす」だけ、「安全」だけ、「便利」だけ、「発展」だけ、はあり得ない。いいとこどりはありえない。そのことを、「表裏一体」という姿でリアル世界は訴え続ける。不偏、自在、進化、といった実態が「裏」に離れないで存在することによって、欲望も幻想も「表」で成立していられる。
「裏を見せ 表を見せて 散るもみじ」と良寛さんは詠んだ。
表裏一体というあり方こそが人間らしさなのだと思えてくる。

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