煎田煎

編集者・ライター

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最近の記事

「私の命」という誤認

「私の命」「あなたの命」と言う。よくよく考えると、とてもおかしい。 この言い方では、先に「私」や「あなた」が存在していて、それが「命」を所有しているかのようだ。じゃあ、「私」や「あなた」はどこから来たの? そんな違和感を軽々と超えてみせる慧眼に出逢った。 公衆衛生学者で痴呆老人の研究者でもある大井玄さんは、「命が『私』している」と言う。 そうだ、ほんとうは、これなのだ! 命が生まれ、それが初めて自転車に乗れた小学一年生の「私」だったり、食事ものどを通らないほど落ち込んでいた昨

    • 長生きすることの良さは何?

      何かの折に浮かんでは、またすぐに消えていく、もはや定番となっている疑問「長生きは何がいいのか?」。 断っておくが、自殺願望や希死念慮の類ではない。純粋に知りたいだけだ。ずっと一本道を歩きながら「あの山を越えたら何がありますか?」と誰かに教えてもらいたくなる気持ちに似ている。 長生きの何が良いのか知らずとも人は生きられるようだ。生きることに答えは必要ないのかもしれない。むしろ、答えよりも疑問ばかりの大海を生きているようでもある。 長生きは何がいいの? そう、ずっと心に抱きなが

      • 時を経て成立するもの

        金木犀が香り始めると、決まって思い起こす情景がある。高校のテニスコート脇の通路だ。 テニスコートと校舎を隔てるそこに背丈ほどの高さの金木犀が生垣のように植えられていて、秋口になるとオレンジ色の花を咲かせた。部活の行き帰りに息を吸い込みながら、なぜ中学生まではこんなにいい香りにまったく興味がなかったのだろう? と思った記憶がある。 金木犀も通路もリアルに目の前にあった時代は3年間で終わり、卒業してからは、秋がやってきたなと思う間もなく漂ってくる金木犀の香りに誘導されて、あのとき

        • 感情の先へ自分を連れていく

          そうしたくないと思っていても、他人を憎んだり恨んだりする瞬間が出てくる。すぐに忘れてしまえればいいけれど、負の感情ほど長びく。 人間なのだから、憎しみや恨みをなくすことはできない。だけど、ずっとそれが頭の中を絞めている状態はとても苦しい。自分自身が疲弊していく。他人にその問題を引き起こした原因があるとしても、「あいつが悪い」というそのネガティブな感情に支配されてしまうのは自分だけで、あいつは痛くもかゆくもない。 無理やり何かをしようとしても、ますます自分を貶めることにしかなら

        「私の命」という誤認

          言葉は誰に向けられているのか?

          駐車場管理のおじさんが二人、話をしていた。 おじさんA「こんなデカい外車をなんで入れちゃうんだよ! 断っちまえよ! 他の車が迷惑だし、何かあったらオレらが文句言われるんだぞ!」 おじさんB「いやー、断るのは……」 おじさんA「言う通りにしてくれよ!」 おじさんB「………」 二人の横を通過しながら、その内容よりも、似たような会話を自分もやっているなと気づいて、頭から離れなくなった。 この場面で明らかになるほんとうの問題は、大型車と普通の車を別々に駐車する仕組みがこのパーキングに

          言葉は誰に向けられているのか?

          なぜ「初めて」の連続を生きていけるのだろうか?

          「私に頼むなっつうの! やったこともないのに!」と、ハンバーガーをほおばりながら若い女性が友達に訴えている。 「ほんとだよね、部長だって分かってるくせに」と、友達もポテトをモグモグしながら同意している。 上司に初めての仕事を押し付けられて文句を言っている光景は、わりと見かける。 見かけるたびに沸き起こる疑問が、やっぱり出てくる。 (どうしてやったことのないものは拒否したいのだろう?) (やったことのあるものならば引き受けるのはなぜだろう?) (じゃあ、経験はどこから始まるのだ

          なぜ「初めて」の連続を生きていけるのだろうか?

          自分が思う「自分」なんか70億分の1の自分でしかない。

          「あなた」は何人だと思う? 「あなた」はどこにいると思う? そう言うと、わたしはここに一人しかいませんよ! と答えるだろう。 でも、考えてみてほしい。あなたのお母さんにとってのあなた、あなたの同僚にとってのあなた、あなたの隣人にとってのあなた、それらはすべて同じ「あなた」だろうか? そして、それぞれの人の中に「あなた」がいるのでは?  「うちのダンナとはまったく合わないのに、どうして会社ではうまくやっていけるのかしら?」ということが当然、起こる。不思議なことではない。ダンナさ

          自分が思う「自分」なんか70億分の1の自分でしかない。

          なぜお母さんは赤ちゃんの「アー」が分かるのか?

          ベビーカーを覗き込んで、おかあさんが赤ちゃんと話をしている。 「そうなの? うれしいの?」 隣のおばあちゃんも 「あらあ、よかったねえ」 と同じように赤ちゃんと会話している。 赤ちゃんは「アー」「アー」としか言っていない。でも、会話できる人がいる。 なぜなのだろう?  お母さんたちは、「アー」を言葉通りの「アー」としては受け取っていない。 むしろ、「アー」って何だろう? といつも考えている。 すると、表情や声のトーンや身振りによって「アー」にもいろんな種類があるんだなと分

          なぜお母さんは赤ちゃんの「アー」が分かるのか?

          市民権をはく奪された“うさぎ跳び”

          「足腰を鍛える」と言われていた“うさぎ跳び”が、いつの間にか大反転して、「健康を害する」と言われるようになった。 うさぎもたまったものではない! 長年、あらゆる部活で贔屓にされていた権威ある運動だったのに、「運動選手」が「アスリート」と呼ばれ始めたことに呼応するかのように、ネガティブキャンペーンが張られていった。 WHY! うさぎは叫ぶ。日本人の足腰は私たちが育んできたのだぞ! なぜ腕立て伏せは「プッシュアップ」と改名するだけで許されるんだ! これからは「ラビ・ジャン」と気軽

          市民権をはく奪された“うさぎ跳び”

          「イソップ童話」の犬の物語を読み返して知らされたこと。

          イソップ童話の犬の話は多くの人が知っている。 知っているであろう。 知っているんじゃないかな。 念のため、ざっくりと、こんな話。 橋の上から川面を見下ろすと、おいしそうな骨をくわえた犬が見えた。奪い取ってやろうと吠えた途端、自分がくわえていた骨が落ちていった……。 この話、おそらく「だから欲張ってはいけないよ」と教えられた人が大半だろう。  イソップに尋ねたわけじゃないからほんとうのところは分からないけれど、「欲張ってはいけない」という話だとするならば、一度読めば「はいはい、

          「イソップ童話」の犬の物語を読み返して知らされたこと。

          なぜ「表裏一体」なのだろうか?

          ハンカチにアイロンをかけてみよう、と思い立ったのだけれど、普段から使い慣れていない素人に、ろくなことはない。 端のほうを伸ばそうと、力任せにアイロンを押し付けたら、きれいに折り曲がった状態でプレスされた。 開いて、もう一度トライした。けれど、一度ついてしまった折り目は消えなかった。 そのとき、不思議な気がした。 「なぜシワを伸ばすアイロンで逆にシワが出来てしまうのか?」 疑問に思うほどのことではないのかもしれないが、ちょっと使い方を誤ると目的とは真逆のことが起こってしまう、そ

          なぜ「表裏一体」なのだろうか?

          仕事を選択する条件。

          いま思い返せば笑ってしまうけれど、大学受験の時期、将来の仕事を漠然とでも決めておいたほうがいいだろうと考えるのだが、なかなか自分の未来イメージが思い描けず、真剣に困っていた。 「文系」という受験先の選択はしていたものの、「理系」ではないというだけの理由だったから、文系に受かっても目指すものが見えているわけではなかった。 「将来、どうするの?」と進路指導の先生にも聞かれるし、「一般企業」と答えたとしても「どういう職種の?」と押し込んでくるのは分かっていたから、なんとか話ができる

          仕事を選択する条件。

          スムーズを疑え!

          福島第一原発事故からしばらくして、政府の「安全宣言」によって「原発再稼働」が進められることになった前後、あちこちで「賛成」「反対」の議論が沸き起こっていた。政財界、学識者から市民グループまで真剣に議論していた、ように見えていた。 が、不思議なのは、その大半が、「賛成派」の集まり、もしくは「反対派」の集まり、に分かれていて、賛成・反対の両方が同じテーブルで議論している場がほとんどなかったこと。 そのため、どちらの議論もスムーズに答えが出た。というよりも、最初から結論は分かって議

          スムーズを疑え!

          “勘違い”に育てられていた。

          だらだらとネット検索していた。 Yahoo!の「知恵袋」で『〇〇(ここにはすごく著名な小説名が書かれていた)って面白いですか?』と尋ねている人がいた。 衝撃だった! 「みんなが間違いなく知っている大作家の代表作を『それって面白いんすか?』みたいにストレートに尋ねる人がいるんだ!」 確かに、自分では会ったこともない人なのに「いい人」と決めつけていり、世の中の評価に同調して価値のあるものだと思っていたり、「そこに主体性はあるんか?」と言われたら怪しいことってたくさんあるな、と自ら

          “勘違い”に育てられていた。

          悩める力があるって、いいんじゃないかな。

          見極められないから迷い続けるのがほんとうのあり方ではないのか。 例えば、「善悪」。 善なる人になりたい、善なる人生を送りたい、善なるものを多く所有したい。多くの人はそう考える。 悪は嫌いだ。悪なるものには近づきたくない。悪なる自分であってはいけない。そう思っているは少なくない。 善悪は、ほんとうにいつでも必ず善悪なのだろうか?  だって、食べるものに困っている子どもに食べさせたいから盗むこともあるし、極悪人を手術して長く生きられるようにすることもある。善悪を簡単に言えないこと

          悩める力があるって、いいんじゃないかな。

          「Q」と「A」。

          暗闇の中にいることを知るのは、暗闇以外の場所を経験した者だけ。暗闇しか知らなければ、暗闇にいることすら分からない。 暗闇から逃れるためにランプを求めるわけではなく、暗闇を知るためにランプが必要なのだ。 暗闇という居場所のことを、暗闇は教えてはくれない。 ランプが手に入れば、暗闇がどんな場所なのか分かる。ランプが教えるのではなく、自分で見ることができるからだ。そうすると、次の行動を決めることができる。ランプが決めるのではなく、自分自身で。 だけど、ずっと明るい部屋で過ご

          「Q」と「A」。