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「先生」という一人称

日本語の一人称は多様です。
私、僕、俺、あたし、わい、わし、自分、うち、吾輩、俺様、朕(?)……
自分の名前で呼ぶこと、相手との関係性で呼ぶこと(パパ、ママなど)も含めれば、無数にあります。
これらを英訳すると、すべて"I(アイ)"になります。

こうした一人称の多様性は、日本語の立派な個性でもあります。
相手との関係性を強く意識する文化。
敬語の文化とも繋がっています。

一人称が変わると、その人の印象がまるで異なるのも面白いところです。
自分のことを「俺」と呼ぶか「僕」と呼ぶか「私」と呼ぶか。
使い分けられるところもまた面白い。

一人称の変化が仕掛けになっている物語が、高校の教科書に載っています。

そう、『山月記』です。
あの、虎になってしまった友達と山で遭うやつ。
尊大な羞恥心と臆病な自尊心のやつ。

登場人物の李徴は、語りの途中で無意識に一人称が変わってしまう。
「自分」と、「俺」。
人の理性と、獣の本能。
客観的な自己分析と、本音の吐露。
李徴は二つの世界を行き来する。
日本語でしか表現できない仕掛けのひとつです。

そんな感じで、一人称ってのは面白いと思うのですが、
ひとつだけ昔から気になっている一人称があります。

「先生」です。

「先生」というのは、それだけで敬称です。
「様」と同じ。
同様に、教師の「師」も敬称です。

つまり、その呼び方は本質的に「敬意」を含んでいるということです。

小学校では先生が自分のことを「先生」と呼ぶことが多い。
中学校でも結構聞きます。
高校でもたまにいます。

これが、僕はあまり好きではないです。
敬意というのは自分から押しつけるものではないと思うからです。

たぶん、年齢的に小学生が「教員に自然と敬意を抱く」のは無理でしょう。
したがって、小学生が特別重い意味を込めて先生を「先生」と呼称しているとは考えにくい。

先生側としても、多くの先生は、家で子どもに自分のことを「パパ・ママ」と呼ぶ親と同じ感覚なのかもしれません。
また、関係をはっきりさせる、そういう教育的観点から、先生を「先生」と呼ばせることが必要だという意見もあるかもしれません。

しかし、僕はそんなことは瑣末なことだと思うのです。
先生と呼びたくなければ呼ばなければいいし、実際に呼ばない児童生徒もたくさんいる。
本人のいないところでも「先生」と呼ばれる先生の方が珍しい。

先生が自分を「先生」と呼び続けるのは何のためか。
あくまで児童生徒に上下関係の大切さを教育するためか。
それとも、自分の立場を誇示し、呼び名から敬意を抱かせようという試みか。

いろいろあると思いますが、僕はその中に、
「自分を一般化しようとする心理」が少なからず働いている気がします。

「先生は」と言うことで、ほかの先生も含めた「先生一般」の権威を借りようとしている、そんな気がします。
実際に目の前で「先生はね、……」と言われると、その人の個性みたいなのがすっと影を潜めて、仏みたいなありがたさが滲み出してくる。
このとき、おそらく先生自身も、あたかも自分が「ありがたい人」になったかのような感覚に陥っている。
そんな気がします。

そもそも、先生はなんでそんなに「先生」と呼ばれたいのでしょうか。
そう呼ばれないと、不安なのでしょうか。
もしそうなら、その不安は、もっと根本的な解決が必要でしょう。
児童生徒は「私」の言うことは聞かないけど「先生」の言うことなら聞くからでしょうか。
もしそうなら、それはいくらなんでもその場しのぎすぎます。
社会通念上、関係性と呼び方の教育が必要だからでしょうか。
もしそうなら、それは一人称で教え込まなくてもよさそうです。

いくら考えても、あまり有意義な理由はなさそう。

というわけで、僕は相手が何歳だろうが、自分のことを「先生」と呼ぶのはやめた方がいいんじゃないかと思っています。

教育現場でこそ、大人が自分のことを「先生」なんてぼかさないで、
「私は」
と言った方がいいんじゃないかな、と思う。
そのうえで、
大人が大人のことを、敬意をもって「先生」と呼ぶ環境、
そう呼ばれるに相応しいような、学び続ける姿勢を持つこと
が大切なんじゃないかな。

先生は、早く「先生」の笠から出た方がいい。
李徴のように、臆病な自尊心と尊大な羞恥心に呑まれる前に。

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