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クラスメイトとは呼べない人たち~食べても太らないカラダがほしい4~

前回のnoteはこちらをご覧下さい。食べなくなって身体におきた異変〜食べても太らないカラダがほしい3

拒食症になって、体重がみるみるうちに落たことで、見た目は明らかに変わっていった。

しかし、見た目の変化だけではなく、どうやら心もやせ細ってしまった。

中学二年生のころは、なんとなくやり過ごせていた。けれど三年生になりクラス替えがあった。一年、二年のときに仲良く過ごせていた人とは誰とも一緒になれなかった。

三年にもなれば、それまで部活で一緒にいた友人や、過去に同じクラスにいた子達と自然とグループが作られる。クラスの女子は八人ぐらいいる大きめな二つのグループと、二三人で形成されるグループに分けられた。けれど、私はどのグループにも入れずに悩んでいた。

ひとりだけ、仲良くなれた子がいたのだけれど、その子は明るく社交的だった。「ふたりでいてもつまらないし、いろんな人と話そうよ」といって、学級委員長の女の子がリーダーになっている大きめのグループに入ることになった。

いま思い返せば、別にグループなんかに入らないで、ひとりで過ごせば良かったのにと思う。一目見て「仲良くできなさそう」と感じてしまった、学級委員長の女の子のグループになんて、入らなければ良かったのだ。

一緒に過ごすたびに、嫌な気持ちが募りはじめた。その子の機嫌をとるために、周りにいる子たちは、委員長を持ち上げたり、褒めたりする。そんなこと、ばかばかしくて、やってられなかった。

たぶん、私はその子達のことを見下していたんだろう。

たかが、こんなグループの中で持ち上げられていい気になってあほらしい。なんでこんな気持ちになって、過ごさなあかんのやろ? と、自分勝手にイライラとした。やたらと攻撃的な気持ちを日に日に募らせていた。嫌なら、そっと離れれば良いだけなのに、それもできなかった。

委員長の子は、私がお昼のお弁当を食べるとき「さっさと食べなー。昼休み食べるだけで終わるつもり? 時間のムダー」といってみんなで笑ったり、「ぶつかったら、折れるんちゃう?」と言って、私の背中をバシンと平手打した。

当時の私は、食事の時間がいつも苦痛だった。食べる速度もやたらと遅かった。30分くらいのお昼休みをほぼすべてお弁当を食べることに費やしていた。食べきれない、食べたくないと思ったときはトイレのゴミ箱に捨てることもあった。

ただ、委員長の女の子が大きな声で人をバカにするのは私にだけじゃなかった。取り巻きの女の子にも「お前アホすぎやわ!」とみんなの前でバカにしたり、「冗談やーん」などといってかなり力を込めて打ったりしていた。なんというか、まわりの人達を支配したい、という気質がある子だったのかもしれない。

ついに我慢できなくなってしまい、6月の体育祭の日に「あんたらと一緒にいるの、あほらしくてやってられへん」と、委員長の子と、その取り巻きの子に向かって言ってしまった。

いちいち、そんなこと言う必要なんて一切ないのに。「その子たちを傷つけてやりたい」という気持ちが、私の心のなかにハッキリと存在していた。

ひとりだけ仲の良かった子とも、この私の発言を境に、あまり話すこともなくなっていった。

グループから離れた私は、クラスにあったもうひとつの大きめなグループの子達に「委員長のグループを抜けた」と話した。委員長の女の子をあまり良く思っていない子もいたので「あっちのグループはしんどかったでしょ?」と言われることもあった。

はじめのうちは、もうひとつの大きめなグループの子達とそれなりにうまくやっていた。けれど、そのグループのなかで、私のことをすごく嫌っている女の子がいた。その子が前に付き合っていた男子が、どうやら私のことを好きになったとか、そういう理由らしい。

確かに、ひとりで廊下を歩いていると「あの、何組のひとですか?」ともじもじした男子に聞かれたり「転校生ですか?」と聞かれたことはあった。前からいたけど、とそっけなく回答しただけで、それ以外なにか会話をした覚えもない。

私としては、告白されたわけでもないし、ラブレターをもらった覚えもない。けれど、私が件の男子と仲良くしていて、そのせいで振られたといった噂も耳にした。

振られたという女の子からはものすごい目つきで睨まれたり、小さな声で「ガリガリ女。早く死ねば良いのに」と通りすがりに、私にだけ聞こえるような声でボソッと言われたりした。

その時の私は、確かにガリガリで、30kg前後だった。いつ死んでもおかしくないくらいにやせていたし、病院でも「このまま痩せつづけると死にます」と言われたころだった。けれど、この「死ねば良いのに」と言われたことにも反発した。「なんでこいつのために死ななあかんねん」と、心のなかで毒づいたのを覚えている。

移動教室のときなど、あからさまに私を避けてバタバタといそぐ子達をみて、「ああ、わたしは嫌われてるんだな」と気が付いた。始めのころは理解できなかったけれど、途中で「グループでいるの、しんどい」と気が付いて、ひとりで行動するようになった。孤立していた、ともいえるけれど、明らかにひとりは楽だとも思えた。

あまりにも攻撃的な性格だったし、いつもイライラしてひどい口調で受け答えしていた。当時お医者様に、「発言がキツいって言われます」と相談したことがあった。お医者様が言うには「身体が飢餓状態になっていると、攻撃的な性格になるっていうのは過去に何度か見たことがあります。極端にやせてしまった副作用的なものかもしれない」と言われた。だからといって、特に治療方法は提示されなかった。

自分では何ともないと思っていても精神的にも追いつめられていただろうし、話をすることすら億劫だった。そのため、できるかぎり少ない言葉ですべてを伝えようとしてしまって、結果的にキツい口調やイライラした余裕のない態度をとってしまっていたのだろう。中学三年生という年頃も、一因だったかもしれない。

私にとって中学三年生の思い出は、良いものは何もない。とにかく人を傷つけてしまったという思い出しかない。同じクラスで過ごした人たちを「クラスメイト」と書くことすらできない。同級生とか、同じクラスの子、とは書けるけれど「クラスメイト」とは書けない。どうしたって、仲良くできなかったからだ。ただ、周りの子達が悪い、とも思えない。やっぱり、私自身が拒食症という自分の殻に閉じこもっていたことが問題だったからだろう。

学校はまったく楽しくなかったけれど、休むこともできなかった。とにかく勉強していれば、なんとかなるだろうと思い、やたら勉強していた。勉強していれば少なくとも怒られることはなかった。また、あの子達と違う高校に進みたいという気持ちが強かった。

私が通っていた中学では、ある程度学力がそろっている生徒たちは「この高校に進みなさい」と、地元の高校への進学をすすめられていた。学年全体の四分の一くらいは、その高校に進んだような記憶がある。

ただ、私はその高校には行きたくなかった。知っている人があまりいない高校に進んで、新しくやり直したい気持ちが強かった。

「高校生になれば、すべてうまくいくはず」と思い込むようにして、受験した高校には合格した。そうして、私の拒食症は、高校進学とともに落ち着きはじめたのだった。


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