さかなつり
「そろそろ、だね」
チラリと腕時計に目をやった。夕方の、ちょうどいい時間にさしかかっている。私は戦闘体制に入るべく、キュッと気持ちを引き締めた。
シュッと音をたてて、ルアーをポイントに投げる。
さあ、今からが勝負時だ。真剣にリールを巻きながら、私は釣り竿の引きに集中した。
私が釣りにハマったのは、大学時代に付き合っていた元カレのせいだった。
アウトドア好きだった元カレは「見てるだけでもいいから」といって、私を無理やりブラックバス釣りに連れて行こうとした。私は日焼けもしたくなかったし、虫も寄ってきそうだから……と、渋っていた。けれど、付き合いはじめたばかりだったし、断って気まずくなるのも嫌だった。
「つまんなかったら、車のなかにいればいいや」と軽いノリで一緒に出かけた。
しかし、ビギナーズラックというのだろうか。生まれてはじめての釣りで思いのほか、たくさん魚が釣れてしまった。はじめて魚が針にかかったときの瞬間は、いまだに忘れられない。カッと火花があがるほどに、一瞬で身体中が熱くなった。一気にアドレナリンが放出されて、元カレのアドバイスなんか聞こえないほど夢中になってしまった。その日は、一緒に行った元カレ以上にたくさんの魚が釣れて、私はすっかり浮かれていた。元カレはちょっとだけ不機嫌そうで帰り道には、「カナ、釣り初めてじゃ無かったんじゃねえの?」とイヤミすら言われてしまった。
しかし、そんなイヤミすらも吹き飛ばすほどに、私は一気に釣りにハマってしまったのだった。
「正塚さん、来年三十歳でしょ? 彼氏も作らないで、女ひとりで釣りに行くなんて、よっぽど物好きだよね」と同僚からしょっちゅう笑われていた。確かに、だれかと一緒に行った方が、楽しいと感じることも多い。釣りは持ち運ぶ道具も多く、移動距離も長い。釣り場までの車の運転も交代できればいいのにと、思うこともある。その相手が彼氏だったら、なおのことだ。
けれど、私は「誰にも知られたくない」と思っている釣りの場所があった。
そこは、私だけの秘密のポイントで、とにかくたくさん釣れるのだ。インターネットで「釣りの穴場」などと検索すると、いろんな場所が出てくる。けれど、ここはまだ、知られていないようで、一度も検索でヒットしたことはなかった。その川辺は、いつ行っても人気がなくひっそりとしている。おそらく、どこか大きな川の支流なのだろう。私自身少し道に迷っていたときに偶然見つけた場所だった。その場所は地元の人も足を踏み入れないのか、うっそうとした木々に囲まれていて、日中でも少し薄暗かった。川の流れる静かな音と、時々魚が跳ねるバシャンという大きな音だけが響きわたるのだった。
週末になると、私は決まって「秘密の場所」を訪れて、釣りを楽しんでた。
魚が釣れる時間、というのは実は決まっている。「まづめどき」と呼ばれている、朝と夕方に訪れる一瞬だけ。その時間だけが釣り人にとって本当の意味で勝負なのだ。
針を投げて、糸を巻く。単純な動きの繰り返しに見えるけれど、私と魚との間で駆け引きがはじまる。
三連休の初日。
夕方の「まづめどき」に合わせて、釣りにやってきた。
川の水がどんよりと濁っていたし、いつもより薄暗く感じられたのが少し気になった。けれど、開始早々かなり大きなサイズのブラックバスが釣れて、そんなことも忘れてしまった。
「よしよし、今日も調子いいぞ」
私は服の袖をまくり上げながら、今日は大物がヒットしそうな予感がする、とニヤついた。やっぱり、この秘密の場所は、誰にも教えたくないな。針を投げさえすれば魚が釣れるんだから。SNSにアップして、うらやましがられるような大物を釣り上げて自慢しようと、ほくそ笑んでいた。
その後も、針を投げれば魚が釣れる、という釣り人にとって理想的なリズムが続いた。私は時間が経つのも忘れるほどに、釣りに夢中になっていた。あたりは少しずつ日が暮れて、すっかりと暗闇に覆われはじめていた。釣りを始めたころよりも、さらに深い静けさに、その川辺は包まれていった。
「ん? 根がかりかな?」
そろそろ、魚が釣れる時間も終わりだから、ラスト一投かな? と思っていたら。針が、川のなかで魚ではない何かに引っかかってしまった。
釣りをしていると、川底にある木の根っこや、草なんかが針や糸に絡まってしまうことは、よくあることだ。強引に引っ張ってしまうと、釣り糸が切れてしまう。慎重に川底にひっかかってしまった針を操りながら様子をさぐる。クイッと何かが外れたような感覚の後に、ようやく針が外れたようだった。グルグルとリールを巻いて、釣り糸を、手元に寄せた。まだ、針は水中に潜っている。たぐり寄せる針には、魚がかかった時とは違った、かなり重たい手応えがあった。大きめな木の根っこでも絡まってしまったのだろう。そう思いながら、針を水面へと引き上げた。思った通り、針には大量の枯れた草が絡まっていた。
ぐちゃぐちゃに絡まっている草は、ほどくのに時間がかかりそうだ。
今日はもう終わりかな。最後に、ついてないな。
私はちょっと残念な気持ちを抱えながら、針に絡み付いた草をほどくために、川原にしゃがみ込んだ。
ぱっと見ただけでは分からなかったけれど、その枯れ草は、ただ絡まっているだけではなかった。草で何かを包んでいるように見えた。五月の節句に食べるちまきのような形をしていた。その草の絡まりを地面に置いた瞬間に「かちり」と音が響いた。静まり返った川辺に、気味の悪いほどにその「かちり」という音は響きわたっていた。その音を聞いた瞬間、私はゾクリと背中が寒くなった。なにか、触れてはいけないものに、触れてしまったんじゃないか……そう思った。
針にかかった絡まりを早くほどいて、今日はもう帰ろう。
そう思ったけれど、少し焦ってしまって、思うように指が動かない。
簡単に外れそうな草の絡まりは、思いのほかしっかりと巻き付いていた。
糸を切ってしまおうかとも思ったけれど、ゴミを出してしまうのも嫌だった。思いのほか時間はかかってしまったけれど、どうにか外すことができた。
その時だった。
取り外すときに乱暴に扱ってしまったせいか、草が包んでいたものが、ぽろりとこぼれ落ちた。
こぼれ落ちたものは、灰色の石だった。
スマホくらいの大きさで、片面は平らだけれど、いびつな形に割れているようだった。
……なあんだ、ただの石か。
私はほっとした。
どことなく気味の悪い感じがしたので、人の骨でも包まれていたんじゃないかとびくびくしていたのだ。
私は、何となく気になって、そのこぼれ落ちた石を拾い上げた。
その石は、妙に冷たく感じられた。まるで、氷のようだった。
持ち上げた石の平らな面に、なにか違和感を感じた。
どうやら、文字のようなものが刻まれているらしい。
気になって見てみると、そこには名前が刻まれていた。
「正塚カナ 享年二十九才」
見た瞬間に、ゾッとした。
……私の名前だ。
気味が悪い。
怖くて、石をどこか遠くへ投げ捨ててしまいたかった。
……享年って、何? どういうこと?
気味が悪くてしかたがなかった。
けれど、もう一度、石に刻まれたものを見なくては、という思いが沸き起こり目を背けることができなかった。
その石には、名前の横に日付も刻まれていたからだ。
さっきの一瞬だけでは、何日と刻まれていたのか確認できなかった。
ぶるぶると震え、手に持っている石を落としてしまいそうだった。私は、視線を手のひらに向け、名前の横に刻まれた日付を確認した。
平成二十九年九月二三日
……今日だ。
全身に鳥肌がぶわっと広がった。
……ちょっと待って? 何? 意味分かんない。
背中に気味の悪い汗がたらりと流れている。
手のひらに乗せたままの石を投げ捨ててしまいたい。目の前からこの石を遠ざけてしまいたい。けれど、この石を投げ捨ててしまっていいものかどうかも分からなかった。
身体中震えが止まらない。
……どうしたらいいのだろう?
辺りを見渡しても、だれひとりいない。
薄暗く、静まり返ったこの場所が、急に気味悪く感じられた。一刻も早く、ここから立ち去りたかった。
手のひらに乗せた石をどうしたらいいのか迷ったけれど、元通りにしておこう、と思った。さっきむしり取ってしまった草を慌ててかき集めた。ぐるぐると石に巻き付けた。石をもっていた手は、石の冷たさと恐ろしさのせいで思うように動かせなかった。釣り上げたときと比べるといびつではあるけれど、なんとか草で石を包むことができた。
……川底から引っ張り上げてしまったのだから、また川のなかに戻せば無かったことになりますように。
私は怖くてしかたがなかったけれど、祈るような気持ちでそっと、川のなかに草の包みを沈めた。川は濁っていて、その包みはすぐに私の視界から消えてしまった。
石は目の前からなくなった。
けれど、私の身体の震えはおさまらなかった。
気味が悪くて、しかたがなかった。
なんで、私の名前が?
なんで、今日の日付?
……もしかして、あれは、墓石なのだろうか? 私の?
ふと思い至った自分の考えに、また気味が悪くなり、また震えが止まらなくなった。
……とにかく、帰ろう。
この川辺に居続けることすら、もう気味が悪くてしかたがない。
一刻も早く、家に帰りたかった。
震える手を何とかなだめながら、私は釣り道具をバタバタと片付けはじめた。
いつもなら丁寧に片付けるのだけれど、もうそれどころではない。糸がからってしまうのもお構いなしだ。
荷物を引き上げて、近くに停めおいた車に大慌てで乗り込んだ。
運転席に座り、フウッと大きく息をついてハンドルに前のめりに倒れ込んだ。
……なんだか、一気に疲れてしまった。
さっきの石は、一体なんだったのだろう?
考えても答えなんか出やしない。
それに、気味の悪い感覚が手のひらに戻ってくる。忘れてしまいたかったけれど、どうしても頭の片隅にあの石が浮かびあがってきた。
……このまま運転して帰れるかな?
ちらりと不安が胸をよぎる。事故を、起こしてしまうんじゃないだろうか……?
いや、そんなことはない、と頭に浮かんだ嫌な妄想を振り払うかのように大きく頭を振り払った。
……とにかく帰ろう。
この場所で時間が過ぎるのを待つなんて、どうしてもできなかった。
車のエンジンをかけて、ゆっくりと発進した。
この場所から、自宅まで、高速道路を走れば二時間くらいで帰れるのだ。
連休中だから、渋滞しているだろうか。そうだとしても、しかたがない。
とにかく家に帰ってしまいたい。
「途中でしんどくなったら、サービスエリアかどこかで休めばいいんだから」そう自分に言い聞かせながら、車を走らせ続けた。
カーステレオを大音量にして、大声で歌いながら、必死に気持ちを落ち着かせようとした。
高速道路はうんざりするほど渋滞していた。いつもの倍ちかく時間が掛かったけれど、事故なんかには巻き込まれずノロノロと進んでいった。
途中、一度だけサービスエリアに立ち寄って、温かいココアを飲んだ。
運転中もずっと冷えきっていた私の手のひらは、少しだけ落ち着きを取り戻してくれた。
あと少しで日付が変わってしまうほど夜遅い時間だったけれど、なんとか無事に、自宅の近くのインターにたどり着いた。ようやく見慣れた町に戻ってこられたのだ。私は胸に抱えていた不安を吐き出すようにふうっと息をした。
料金所のレーンに差しかかる。一般レーンに進み、私は通行券と小銭の準備をした。車の窓を開けて、係員のおじいさんに通行券と小銭を渡した。
おじいさんは小銭を確認して「100円のおつりね」と確認した。
そのとき、おじいさんは甲高い声でイヒヒッと笑い、私に100円玉を手渡しながらこう言った。
「あとちょっとで大物が釣れたのに。失敗だったなあ」
その声を耳にした瞬間、ざあっと全身に鳥肌がたった。
わたしは恐る恐る運転席から、おじいさんの顔を見上げた。おじいさんは墓石のように冷たくくすんだ顔色をしていた。死んだ魚のように濁った目で、冷ややかにわたしを見つめていた。その顔は、私をこの世ではないどこかへ連れて行こうとしている死神のように見えた。
渡された100円玉は、川で拾った石のように冷たかった。
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