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自己紹介

今更なんですが、自己紹介をしておこうかと。
Twitterでは、なっちゃん(仮名)となっている。
めちゃくちゃ長い。だが、私の根本が詰まっているので本当に暇な時に見て頂けたらと思う。
長過ぎる為に、最初に簡略的なものを書いておく。

・昭和終わりの方生まれ
・自称のAC(アダルトチルドレン)、HSP
・酷すぎるわけではないが徒歩圏内に毒親の両親がいる(でも同居は絶対嫌)
・元旦那からは経済的DVを受け離婚、作らされた借金により私は債務整理するはめになる。元旦那は現在は音信不通状態。
・恋愛依存体質だった(今は恋活すらしてない)
・2021年5月から、鬱病にて休職中
・仕事は医療系事務職(医師事務作業補助+病棟クラーク)
・小学生年子男児の母。次男は発達障害疑い(病院受診日がまだ未定)


・幼少期〜高校生

私は転勤族の父、看護師の母から産まれた。
就職時ギリギリバブル世代だった父だが、勉強を全くせず遊んでたらしく、高卒で某国家公務員。
世間はバブルなのにその時代に新卒での就職時が高卒公務員となると、物凄く貧乏だったそう。

私は昔の記憶が薄いのもあるが、物心着く頃には別に家が貧乏だと思うことはなく育った。
ただ、自分の意見が通る事は少なく、買って貰えるものは親が納得しお眼鏡にかなう物のみ。
おかげで全盛期だった任天堂とSONYのゲームには少し他の子より関わりが薄い。

小学校時代は勉強面で特に苦労することは特になく、小学校低学年から眼鏡をかけおデブちゃんであったが、転勤族で鍛えられた為か、人見知りはしなく友達に恵まれてきた。

学校へは友達に会いに行く程度の感じだったが、親は勉強面にはわりとうるさく、小4の頃、自分の意思ではなく母に散々詰められるような状態で、泣きながら夏休みの読書感想文を書いたのは辛い記憶。

しかも結局ほぼ母親が書いたような読書感想文が、賞を取り、当時の新聞に掲載され、表彰式に行った。
祖父母や実父母はそれはそれは嬉しそうだったが、私はそんな中1人全く嬉しくなかった。

父は気に食わない時は私と妹に怒鳴り散らし、母親もまぁまぁと抑えるだけで「話し合い」→「解決」と言う流れが我が家にはなかった。

親=絶対=良い子でいたら丸く収まるという構図が出来上がり。

私は悩み事等は親ではなく友達にしかしなくなっていった。だんだんと、家の中での居心地が悪くなっていっていたが自覚していなかった。


中学に入ると現在の市に実家が家を建て、私は父の転勤について行かなくて良くなった。
そして中1初めてのテスト期間前、初めての短縮授業の日の事。
「〇〇ちゃんと遊んでくるー」と言うと母が
「テスト期間前の短縮授業は勉強の為やで!?何言うてんの!?あかんに決まってるやろ!」と言われ、とてもびっくりした。
そこに私の意思や都合は関係ないのだ。

それでも勉強は小学校の頃よりできなくなっていき、勉強も運動もできない残念おデブちゃんとなる。(中学入学とほぼ同時に、眼鏡での部活が不便と言う名目でコンタクトにしてもらった)

そして中2。私は夏休みにデビューしたのである。厨二病全開、ど金髪に喫煙(※タバコは20歳からです!)
この頃から「愛される事」への執着は始まっていたのか、既に恋多き乙女になっており、見事な勘違いおデブちゃん爆誕である。ちなみに親は髪色には厳しい注意はしてこなかった。学校が始まると黒染めはちゃんとしていた。長期休みのみの金髪は高校生になっても続いた。
人生初めての彼氏は、私があまり知らないが突然告白され、その周辺のあまり親しくない人達から「ええ奴やから!」と言われOKしたものの、私は純粋過ぎて、結局よく知らない人とは付き合えないと1週間で終わった(笑)

中3の卒業の頃、ヤンチャしてた同じ学年の子と付き合えた。めちゃくちゃ嬉しかった。かっこよくて優しかった。
が、家に連れて入ると母は凄く機嫌が悪く早く帰れと促してくる。ヤンチャな子はダメらしい。
結局、高1に入りわりとすぐ、同級生でたまに一緒に遊んでいた門限がない子に寝取られ恋は終わった。
めちゃくちゃ辛かったし、ヤンチャってだけで人間性を決めつけ、門限にめちゃくちゃ厳しかった親を恨んだ。

高校は、「同じ中学の子の皆(大半)」が行くからという理由で地元の県立高校へ入学。
当時の担任からは落ちると言われていたが、なぜか受かった。(当時は今と入学体制が異なり、校区だと入りやすかった)

この時点で「私」には「私の意思」で動くことはなかった。

高1、悪友と一緒にしていた万引きで補導され初犯という事で厳重注意だけで済んだ時、親に物凄く怒られた(これは当たり前)。
おしゃれに敏感なお年頃。お小遣いでは足りないと感じ私はすぐさまバイトを始めた。
このバイトは就職まで続いた。とても楽しかった。新しい世界、新しい仲間、普段関われない人や大人達との環境。学校以外にも私の楽しい場所が増えたのた。

ただ、門限には相変わらずうるさい。自転車で15分かからない程度の場所だったが絶対に10時半までに帰ってこいと。

某モール内の某玩具店だった為、10時に終わり、2個しかない更衣室で順番を待ち、着替えを終わらせ、カバンの中身の点検を店舗、モール内の従業員出口と2度受け、従業員専用出口から出るのにそれは無理だ。
バイト後の皆との雑談にも入りたいのになかなか難しかった。

バイトがなければ友達との予定で埋めまくり、家での時間を無自覚に減らしていた。携帯代からお茶代、ごはん代全て自分のバイト代で払った。扶養内ギリギリまで毎年働いた。

バイトが同じ同い年の彼氏ができた時、またもやたまに遊んでいた同じバイトの子に実質取られるような形という出来事もあった。若い時から男を見る目がなかった。

逆によく話す子の彼氏と知って寝てしまう事もした事があった。性への貞操観念はこの頃からバグっていた。

高3、物凄く大好きな彼氏ができたが、受験の壁にて収束。(彼の方がかなり受験勉強を頑張っていたので)
一方私はやりたい事がなく、今度は「皆と一緒」ができない。フリーターは親が許してくれなかった。無理して入った高校だったのでギリギリでの卒業。
仕方なく言われるがまま、受験のいらない大学へ入った。

・大学生、専門時代

ここで、元旦那と出会う。5月には付き合った。早。
束縛がわりとあった為バイトをドタキャンするようになったりした。他の女が出てきたりなんやかんやゴタゴタ付き合ったり離れたり。
そして20歳の頃。
私は元旦那と揉めていた。荒れていた。もう死ぬしかないとこの時思っていた。喧嘩の最中、折りたたみだった携帯(ウィルコム)を真っ二つに折り壊し、メインはスライド携帯だった為電源を切り、「死ぬから探さんといて」と言い私は外に出た。

バイトも繁忙期も繁忙期。玩具店なので年に1番忙しいクリスマスイヴの日に、私はバイトもドタキャンし、家にも帰らず、地元の友達やバイト先に散々な迷惑と心配をかけた。

実は、バイト代は毎月きっちり使い切っていたので、この時お金が無く、バイト代が月末あたりの支払いだった為(27日?とかだったかな)大学1年の頃紹介してもらった一人暮らしの男の子に突然連絡をし、バイト代が入るまで居候させてもらおうとしたのだ。
そしてバイト代が入れば遠くのどこかで死のうと思っていた。

結局その子の家では2泊ほどいさせてもらい、なんとその子は手も何も出さず一緒にいてくれた。
なんやかんやで知り合いの間で大事になっている事を知り(そらそうだよ)その子の家がある隣の県まで親が迎えに来て終わった。

その直後に成人式。私は自覚がなかったが、笑えていると思っていた当時の写真はほぼ無表情だ。

大学も、1年の頃から既に行けなくなっており、単位は取れておらず、2年の終わり頃退学。

親は特に寄り添った事よりも、辞めてどうする、先を考えろの方向にわりと短期間で切り替えられた。

今から10数年も前だと、心療内科等はまだ今ほどメジャーではなかったが、私だったらまず話を聞き、病院に連れていくのが親かな、と思う。うちの親は違ったが。

1年フリーターで心を休め、特にやりたい事がなかった私は母が看護師、当時ユーキャ〇等で「人気のある資格ナンバーワン」と言われていた事から、医療事務の資格が取れる、社会人コース(1年のみ)の専門学校へ入る。

「本気になったら!」でおなじみの学校で、本当に本気にならないとならない勉強量だった。ここは生まれて初めてきちんと自発的に勉強した1年だったと思う。
普通の2年コースもあったが、ここでなぜ1年コースを選んだかというと、大学へ行っている子達と同じ年齢で社会人になれるタイミングだったからだ。
やはり「みんなと一緒」が根付いていた。

・結婚

無事就職が決まり、元旦那も同じくして大学は中退しており、某宅配業の下請けで私より1年早くすでに働いていた。一人暮らしの元旦那家に泊まり出勤もよくしていた(20歳超えてからは親は門限にうるさくなくなった)

それを3年ほど続け、私は月収が低すぎた為お金は貯めれず、元旦那もあればあるだけ使うし、(後から知ったが働き始めてからも親に家賃を払ってもらったりしていたようだ)同棲を始めようかという話になった。

両家とも「同棲は反対。そらならきちんと結婚してくれ」との事。おかげで私は元旦那の親戚の仕事関係の絡みもあり、結婚式まで半年未満しか時間が無い状態でやりたいと言ってない、むしろやらなくても良いと思っていた結婚式までやる事になった。両家とも世間の目や体裁を気にするし見栄っ張りなタイプである。元旦那は完全な機能不全家族、我が家は仮面を被った機能不全家族。

上の子を妊娠、安定期に入った頃、消費者金融からの督促の手紙が旦那宛てに…それを見て産後復職するつもりだったが、元義実家の中で大人しくしてもらおうと思い同居を決意。長男産後1ヶ月から元義実家で完全同居開始。私が次男を妊娠し、つわりから家事手伝い等できず、田舎特有の色々にもついていけず、元旦那は相変わらず親に尻拭いしてもらっても新たに消費者金融からの督促の手紙が届いたり、毎週末飲みに出かける等全くメリットがなかった為、揉めて1年程度で同居解消。

地元から車で30分程度のとこへ引っ越す。ギリギリで生活し、食費はかなり親に助けてもらっていた。
次男臨月の頃、生活費がもらえず連絡もつかなくなった時があった。全部競馬につっこんだと。絶望した。たしか元義母がどうにかしてくれたような気がする。私は心配かけたくなくて里帰りしていた両親にこの事を言えなかった。
次男が無事産まれた。明け方に2時間かからなかったスピード出産。元旦那に連絡。駐車場に着いたからの連絡が来てしばらく待つも全然来ない。ようやく来たと思ったら酒臭い…駐車場で寝てしまっていたらしい。もうほんと嫌になる。この時離婚しとけば良かった。

次男がまだ6ヶ月頃にも、生活費入れれないからと私が消費者金融で借金をするはめになった。
働きたくてもその頃済んでいた地区が保育園幼稚園共に激戦区で難しい為、また私の地元に戻った。次男が1歳超えたと同時に現在の仕事を開始。

・離婚

独立すると突如言い出した元旦那。もちろん資金などない。下準備も計画も取らぬ狸の皮算用の話ばかり。現実は下請けの下請けになる個人事業主。
結局仕事用の車がいると突然言われ、正社員の私を利用し、限度額めいいっぱいまで借りることになる。
そしてそんな計画性もコネも人脈もない仕事が上手くいく訳もなく、支払いがどんどんできなくなっていき、ついには私のクレジットカードも勝手に乱用するようになり、生活費も入れなくなった。借金はどんどん膨らみ私の給料では家賃と保育料しか払えず、他は全部2ヶ月遅れで繋いでいた状態。
元旦那は絶対に口を割らなかったが、きっと凄い額の借金をしていたと思うし、税金もおそらくちゃんと払ってなかったんじゃないかなと思う。私はいつかこうなった時の為に、正社員の道を選び、健康保険は子供達は私の中に入れていた。
売れるものももう何もなく、電気やガスもしょっちゅうとまり、保育園児だった長男が「おなかすいた…」と言ったのを聞き一気に離婚へ動いた。
今までの支払わなかった期間の生活費や私の借金等、迷惑かけられた額を色んな人に頭下げてでも用意してこいと言ったが、持ってきたのは提示した額の半分以下。1/3にも満たない。調停したって裁判したって絶対来ないし、無い袖は振れないので時間とお金のムダだと思いしなかった。結局引越しや今までたまっていた請求された物の精算だけでなくなった。

・引越し

そして離婚に向けドタバタしていた時、生まれて初めて職場で過呼吸を起こした。上司に抱えられ横になり休んだ。ここでも特に自分で心療内科とかに行こうなんて頭の片隅にもなく、手続きや生活環境を整えるのに必死だった。
親にももう離婚すると言い、今までは止められていたがもう止めることはなかった。今まで引越しの度、金銭面を工面してくれてたのは私の父だった。ようやく、元旦那とは無理だとわかってくれた。
ただ、引越し業者や予定等父が勝手に決めたり父の都合に合わされ動いた為凄く疲れた。離婚時は元旦那の持ってきたお金でしたので、口出しして欲しくなかったが引越しの契約者も父の名前になり、業者が父に指示するもんだから移動の際、父から「何してんねん、行くぞ」と言われ、こちらが知らぬ間に引越し業者が休憩だと知り、昼食を取った。聞いてないし。

・離婚後

私は母に父のそういう所がしんどい、家の契約時も自分が住むんじゃないのにあれこれ不動産屋さんに注文をつけ、あれはどうにかできないのか等色々聞いたり、たまに食糧の買い出しもしてくれたりしていたが、その度に全部買ってきた物の説明を1から10までしてくる。(これは要冷蔵、要冷凍、賞味期限が〜…等。見りゃわかる)
冷蔵庫も勝手に整理を始める。家に入ると勝手にゴソゴソ整理片付けされたりする。これは離婚前の家の時からそうだった。結婚した妹の家でもしていたようだ。全部母にぶちまけ、離婚後の家は父はほぼ出禁の状態にしてもらえた。合鍵は母にだけ渡した。
ただ、離婚後車をリースしてくれたり等、やはり困った時の金銭面は工面してくれてたので言いずらかったが、だんだんと自分の意思は母を挟み伝えれるようになってきた。ただ、母も毒要素はゼロではない。世間体も気にするし、芸能人レベルの見知らぬ人ですら再婚に否定的。鬱になってから3ヶ月、晩ご飯を作りに来てくれていたが「私もしんどい」アピールがどんどん強くなった為、9月からは私が自力でどうにか買い出しと家事をしている。結構無理してしているのできついが精神面ではやはり少し楽になった。これは、私よりだいぶ前から、毒親だと自覚していた妹からのアドバイスでこうなった。
鬱になってから、初めて妹と家族について話し合いをしたのだ。そこで私の親は毒親だと2人で意見は一致し、私は初めて自覚した事になった。妹も昔鬱経験あり。私の良き理解者である。

フルタイム保育園児送り迎え、自由時間は全くなくなったが心の負担は一気に軽くなった。
実父母の価値観を押し付けられたくなく、子供達を親に任せて遊びに行く等はほぼしなかった。年に1度あるかないか位。

・恋愛依存体質

離婚してからは、マッチングアプリでよく彼氏を作ろうと試みていた。何人かできたが、もちろん失敗もたくさんあった。そしてそのうち好きになれた彼氏は、たった1人。バツイチの、同い年の子供がいる4つ年下の子。
可愛い可愛いと言ってくれ、私のコンプレックスまで愛してくれた。男の人と付き合って中でこれだけ自分を認めて貰えたのは初めてだった。
結局、離婚しているのに元嫁からの執着が凄まじく、彼氏がよく週末自分の子供達に会いに行っていたのだが、彼氏のスマホから、離婚してないから連絡取るなと電話してきて嘘をつかれたり、勝手にLINEやら削除した画像フォルダまで隅々まで見られる彼氏。そしてLINEもよくブロック削除された。元嫁対策は色々とした。が、彼氏がスマホの扱いに鈍いので結局バレる。
この過程で、体調がだんだんと悪くなっていったのだ。
何度も期間を置いて、結局忘れられないと連絡が来て何度か会ったが、やっぱり元嫁が彼氏が寝ている隙に勝手にスマホを触り、私とのLINEを見つけ出し、誹謗中傷、脅迫のLINEが来た。もうこれは無理だと思い、全部こちらから連絡を拒否設定にした。
自分の鬱、次男の事もあり、しばらく恋愛はしないで目の前の問題と向き合う事に集中しようと思っている。

・子供達

長男は小さい頃から面倒見が良く、優しい。次男の子育ては長男がしてくれたと言っても良いくらい。年齢の割に察しがよすぎる、空気を読みすぎる、良い子でいようとする気がみられる。最近の次男の言動行動にストレスがみられ、きちんと色んな面でのケアをしてあげたいと思っている。片付け能力が凄まじく低く、ランドセルの中身はぐちゃぐちゃ。ゲーム大好き。ゲーム中の声が大きすぎるので毎日注意している…

次男は色々記事を書いている。現在進行形で発達障害への対応を進めている。

しかし次男からつい先日、「そろそろ新しいパパが欲しいなー」と、唐突に言われてびっくりした。
い、今はそれママ1番難しい時期かなぁ…と言った。申し訳ない…

・アカウント名の由来

Hawaiian6というバンドが大好きだった。その中のマジックという曲の歌詞に、大人になってから改めて聞き返すと本当に心に沁みたのだ。30は、子供2人の産まれ日。

https://youtu.be/pt4P8lw1cEU


7000文字にも及ぶ大作な自己紹介となってしまったが、私はこんな感じでどうにか現在まで生きている。子供達に助けられている面も沢山ある。職場や、友人にはとても恵まれている。鬱だから、と言って離れるような人はいなかった。LINEやSNSで、変わらない対応をしてくれるし、優しく接してくれている。

これからも徒然と、日記代わりに投稿していこうと思う。


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