見出し画像

マザー・タング(母語)と国語の授業

けい先生です。まずはこの一節を読んでいただきたい。

マザー・タング(母語)という言い方があるが、我々の多くはおそらく「最初のことば」を「母親」との関係の中から学ぶのだろう。

母親の胸に抱かれ、そのぬくもりの中で語りかけられ、揺すられ、笑いかけられ、我々はあるリズムを身体に刻み込まれる。

そして、泣くことと笑うこと、快と不快を身体全体で表現することから、茫漠とした世界へのよびかけが始まり、そのよびかけに応じてくれる者の存在を感じることで世界は形を持ちはじめ、コミュニケーションの道が開けてゆく。

その最初の発語が、マンマであれ、チャッチャであれ、なんであれ、自分の発した音が世界に届き、誰かがそれに応えてくれるからこそ、子どもは「ことば」を獲得するきっかけをつかむのだ。

応答なきところにことばは生まれようはずもない。

藤本英二『高校生と文学作品を読む』(鳥影社.2022)

「応答の有る」国語の授業を

引用させていただいた本文は、けい先生がZoomで私淑している藤本英二さんの近著の「冒頭部分」です。

冒頭を強調したのには理由があります。国語の本、すなわちことばについての文章を、「母親と赤ちゃんとのやりとり」から書き起こした文章に、わたしはお目にかかったことがなかったからです。これには、震撼させられました。

私は現在40代ですが、コロナ以前には「アクティブラーニング」が流行しており、学校現場でさかんに研究授業が行われました。まさに「狂騒」と言える状況でした。けい先生自身も、わざわざ東京まででかけていって、その道の「権威」に教えを乞うたものです。

しかし、今から思えばアクティブラーニングは、理論面においても技術的側面に偏っていました。つまり、「こうすれば子どもたちは活発(アクティブ)になりますよ」という方法論に留まっていたように思います。われわれは、言葉にできない不満や葛藤を抱えながら、この外来語に振り回されていました。

母とのやりとりから「ことば」は生まれる

お母さん(お父さんでも構いません)は、赤ちゃんにとっての世界です。世界から語りかけられる、そして自分もことばにならない音声を振り絞る。すると世界もやさしくそれに応じて語りかけてくれる……。

これは国語の授業においても変わらないと思います。

わたしたち国語=母語の教師は、何かを教えようと大上段に構えがちです。しかし、ことばの発生からして世界との温かい応答から生まれているのであれば、国語教師である私自身も、子どもたちとの人間味のある応答のなかから、「ことばの力」を実感させるような授業がしたい。そのように思います。