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日記:20240209〜こだま『ずっと、おしまいの地』〜

 こだまさんのエッセイシリーズ第3弾にして最終巻『ずっと、おしまいの地』を読んだ。

 相変わらず笑ってはいけない、笑うことを躊躇うような出来事を、これで笑わなかったら余計にどうしようもなくなってしまうような、笑うしかなくて漏れてしまう笑いで包んで描くエッセイ。
 笑いとともに吐き出された作者自身の苦しみや哀しみや怒りや恥ずかしさなどのあれこれを、笑わせてもらったのと引き換えに読者の自分が吸い込んでいる。でもそれは決してネガティブな体験ではなく、直接体験したわけではない痛みに触れることで、自分自身の感じられる閾値が広がっていくような貴重な体験をさせてもらっている。とても豊穣な読書。

 笑いの対象との距離の取り方が、第1弾『ここは、おしまいの地』、第2弾『いまだ、おしまいの地』とシリーズを重ねるごとにゆるやかに変化していくのが感じられる。著者自身が記しているように鬱を体験したことにもよるのだろうけれど、存在しているだけで生きづらい世界での呼吸の仕方を少しずつ身につけているような成長の物語でもある。

 面識のないご近所さんに「花火が綺麗ですね」と声をかけられるようになっただけで感じられる自身の成長や変化。それはこの世界での生きづらさを感じたことのない人には取るに足らないことなのかもしれないけれど、とても大切でささやかな革命のような出来事だ。
 いつか自分のやり方で、呼吸できる日が来るといいな。

 私が処方されたのは「サインバルタ」という抗鬱剤だった。やる気の出るお薬です、と医者は言った。
 サバイバル、サインバルタ。どこか似ている。
 やはり私の曲かもしれないと思い直す。サインバルタダンス、抗鬱ダンスだ。

こだま「抗鬱の舞」(『ずっと、おしまいの地』)

鬱以前の『夫のちんぽが入らない』と『ここは、おしまいの地』は自分で言うのも変だけど、まっすぐですごく強い。こわいものがなかった。鬱を経ておもしろみが消えてしまったかもしれない。でも、私自身は自由になれた気がする。前と後どっちの自分もいいじゃないか。そう思える日が来るといい。

こだま「二〇二十一年十二月」(『ずっと、おしまいの地』)

 長いあいだ自分の全てが嫌いで仕方なかった私には個性とか美しさとかありのままの自分を好きになるとかいう言葉はしっくりこない。自分にとっておもしろい部位になっているかどうか。そういう視点なら病や老いと付き合えそうな気がする。

こだま「直角くん」(『ずっと、おしまいの地』)


 ふだん、単行本の帯はほとんど気にしないし、なんなら邪魔に感じることの方が多いのだけど、この本の帯の推薦文は素晴らしかった。著者の文章に惹きつけられた人の心から生まれた言葉だからだろう。こだまさん自身の文章が呼び寄せた言葉だとも感じた。

傘をくれる本ではなく、晴れをくれる本でもない。あなたが冷たい雨に打たれるとき、一緒にずぶ濡れになって笑わせてくれる本だ。

木下龍也(『ずっと、おしまいの地』推薦文)

さみしいひとたちが、さみしくないふりをして生きているこの世界で、この本はちゃんとさみしい。

永井玲衣(『ずっと、おしまいの地』推薦文)


 「おしまいの地」シリーズを「これはあなたのために書かれたんですよ」と意味のわからないことを言いながら押し付けたい人の顔が、ごく数人浮かんでいる。その人に読んでほしいし、読まれてほしい。
 でもそういう人たちほど、あなたは自分じゃない、と思いそうだから我慢している。この文章も読んでいないだろうけど、どんなきっかけでもいいからいつか届いてくれないかな。


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