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出口なし

首藤康之が踊るというので観に行くことにした。
フランスの哲学者サルトルの戯曲「出口なし」を演劇と舞踊の融合で作るという。

踊りパートによって、言葉で説明できない心情が雄弁に、切迫感を伴って伝わってきて、見入ってしまった。普段あまり演劇は観ないのだけれど、とても楽しかった。

ところで、この作品は演劇と舞踊の境界を超える作品として創作したとある。その試みは何を目指していたのだろう?一観客の感想をその視点で整理してみた。
ちなみに、私は踊りびいきな観客で、ストレートプレイにはあまり反応できず、台詞が説明に聞こえて鼻白んでしまう(歌舞伎やお能はドラマであっても、リアリティー劇ではないので、大丈夫、楽しめるし、好きだ。)。そんな人間だから、今回の舞台が楽しかったのだけれど、それでは随分偏った見方だけになってしまう。

そこで、他の見方に出会えればと思って、私視点でこんな風によかったというのを書いてみようと思う。

踊りだから受け取れたと思われる点

心情が伝わってくる、という点では、これはもう、踊りのおかげだった。

出口なしな状況下で3人の刻々と変わる心情。
各個人の人生を踏まえての在りよう、心情。

踊りで心情が伝わってきて、舞台に見入った。これは踊り、身体の持つ力だと思う。そして心情をダイレクトに受け取るのは舞台を観る楽しみの1つだ。

心情は、それを生んだ状況は説明できても、心情自体は言葉にならないものなので、それを伝えようとすると身体から滲み出るものによってしまうと思っている。
しゅんとしてしまっている身体、はやる気持ちを抑えられないでいる身体、いろんな状態の身体から、私たちは身体どうしで情報を交換しあっている。感じあっている。気持ちが伝わっている。
普段の生活の中でもみんな身体は語っている。大きな声か小さな声かはあるけれど。
で、プロのダンサーは、自分以外の心情も身体にセットできる。


ダンサーが踊る時、動きは外側から規定された動きではないんだなぁ。身体は与えられた振り付けを実行する受動の位置付けではなくて、身体自体がその人の実存、能動になっている。そういう在り方をしている。自らの身体、細胞からふつふつとしているものがあってそれによって在っている。大脳新皮質であれやこれやと考えている身体ではないんだなー。そうするとやっぱり、見ない目、視覚の目にならないんだな。大脳辺縁系同士がつながって、それで世界を見ているんだな、なんて思いながら首藤康之を見ていた。

ネットを見ていても踊りパートに好反応していた方の言葉は、「ダンスが入ることで感情が濃縮される」「踊りでより見えない感情を表現している」「ダンスによってより雄弁になっていた」「言葉では伝わりきらないことがダンスからびしびし伝わってきた」といったもので、あぁ、同じだなぁ、と思って見ていた。

ただ、いきなり踊りの動きに切り替わりすぎたかな、という場面も何点かあったし、説明がすぎる動きもあった。さぁ、踊りますよ、というよりは、自然と身体がその状態に移行してしまったというような、演劇パートと踊りパートは自然に滑らかにつながっている方がいいなぁ、と思った。

演劇の枠組みがあったからこそ受け取れたと思える点

台詞のおかげで、複雑な状況と展開が理解できる。その上での心情が踊りによってスッと入ってくるという建てつけ。これは踊りだけの舞台では難しいだろうなぁ、と思って見ていた。
踊りが扱っているのが単純シンプルな心情と限られる訳ではないけれど、そこに至る状況を共有することは難しい。物語バレエも評価されているものがたくさんあるけれど、説明部分を踊りにしている事が、むしろ素直な観賞の妨げになってしまう部類の人間も、ここにいて、諸手を挙げてよいとは思えない。

または、心情の共有という以外に色々と考えが派生した点。これは、踊りの舞台でもあるかもしれないけれど、あえてこちらで挙げてみる。

具体的には西洋思想と日本人のこころのありようの違い。今回特にサルトルという大哲学者の戯曲というのもあったかと思う。


1つ目。

罪を犯した人間が死後終わりのない地獄に落ちるという話なのだが、そもそも、地獄という概念、そういう懲罰思想、そもそもの原罪という感覚が日本人には希薄だよな、という事。むしろ、延々と解放されない苦しい時間を描いたら、お能の世界になってしまう。死んだ恋人への執着を断ち切れず、重ねていく日常の苦しさ、その苦しさから霊となって現れ、生い立ちと苦しみを語った後夜明けとともに消えていく、というストーリーになってしまいそう。

2つ目。

自分を見る他者の目が自分を規定するという視点。この命題には共感するところはあるように思うけれど、そこから派生するのは真の自己を表明するための外部との戦いがテーマになるのではなくて、人の目を克服して生きる自分をめざす、という返って自分の内側を見つめる作業を、日本人は始めそうなものだ。
そこで、面白いな、と思ったのが、お互いの目を向け合う事をもう止めだ!自分だけの世界に生きる!と3人が宣言して関わり合いをやめるところ。
この状態になった途端、それは続ける事ができない、人間は他者と関わらずにはいられない、という定理が浮かび上がる。
という事は、自分の内面の中にだけある悩みなんて、本当は成り立たないんだという事。外とつながった途端、その悩みは悩みでなくなるはず。
あと、内面の悩みを表現されたものを見るのは、基本的に退屈な事だけれど、外を遮断する!と宣言しての、つまり外を絶っているという明確な意識があっての、自分の世界へ埋没する姿は、無自覚に自分の中を探求する姿と全く違うんだなという気付き。

3つ目。

脚本が強い!鉄筋コンクリート建築なみにしっかりと強固。この生半可には破綻しようのない脚本があってこその様々な取り組み。踊りを放り込んで見ても、びくともしない。こういう強固な思想、文化はヨーロッパだよなぁ、と思う

疑問再掲

演劇と舞踊の境界を超える、というのは、何を、どんな効果を期待していたのだろうか?

心情を共有するための媒体は身体なので、舞台にはそういう身体が不可欠だと思う。一方、ドラマの骨格のために言葉を使う。その組み合わせがあるのは、自然だなぁ、と思ってきた。

そもそも、日本のドラマの原型のお能は、その構造、そのものだったなぁ。それは、今回の舞台、好きになるはずだ。

ちなみに、首藤さんのインタビューで関連しそうだったもの。

白井さんx 首藤さんインタビュー


公演概要

2019年2月3日(日)千秋楽の公演を観た。KAAT中劇場。14時から1時間25分。公演HPはこちら。

原作: ジャン=ポール・サルトル
上演台本・演出: 白井晃
出演:首藤康之、中村恩恵、秋山菜津子

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Magnolia

踊り・ダンス・身体性

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