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山桜

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 桜、梅、レンギョウ、コブシなどなど、山里の春は色とりどりで美しい。山裾から中腹にかけて広葉樹林の合間にポツン、ポツンと咲き誇る満開の山桜。どの木よりも高くあろうとするためか鬱蒼と生茂る樹林帯から一本だけ突き抜けている。

 登山道に積もる花びらで付近に山桜があることを知る。見上げると樹木の葉で覆い尽くされたさらにその上に、満開の山桜がようやくみえる。山桜は、周りの樹木より、さらに高くあることで、周りと共にあり続け、凛とした美しさを誇っていられるのだろう。

 ソメイヨシノもいいけれど、山桜の控えめながら山の樹木の中にあって孤高に凛として立つその姿が好きだ。

 

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 そういえば、子どものころに住んでいた高台のその家に一本の山桜があった。花をつけた枝が二階の軒にまで届き、花びらの一つ一つが誇らしげに咲き誇っていた。そして、坂の上のその家からは、枝と桜の花びらモールの合間から遠くの丘陵地まで見渡せた。坂の上で咲き誇る一本の山桜は、小学校からの帰りみちにその花を見上げながら急な坂道を登る私を励ましてくれた。あの山桜は、けっして人に何かを与えようと恩きせがましく在るわけではない。存在そのものが影響を与える存在であるのだ。それをみる人々に勇気と力と癒しを与え続けている存在なのだ。

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 なんだかここのところ、良かったことと凹むことが交互に押し寄せていた。両極端な出来事が続いているので気持ちがざわついていた。ざわついているときには、とにかく行動が短絡的、衝動的になりがちで、あれこれ手をつけてはみるものの、完了まで集中力と努力と根性が必要だとわかると、次に乗り換え、そしてまたそれをも放り出して次に乗り換え、で、結局はなにもかも中途半端だった。メールの返信すらそんな感じだった。やることが多すぎなのか、計画性のなさ故なのか、柔軟な対応が求められるような案件が多いせいなのか、もうなにもかもにもインテグリティーに欠ける日々であった。

 良かったことは、私のこれまでの仕事っぷりを、見ている人は見てくれていたとことがわかったこと。凹んだことは、それ以上に周りの人たちはもっともっと努力して素晴らしい結果が出していることがわかったこと。私の努力なんてとるに足らないものだったのかもと自分を信じられなくなったこと。

 あの山桜のように、より高く在りながら、周りの樹木と共にあり続け、勇気と力を癒しを与える存在でありたい。

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