文化で国際貢献、元拉致問題担当大臣の中山恭子さん 地球市民の時代へ、「共生」の理念を追求
人生の出会いは不思議なものだ。「袖振り合うも多生の縁」といった故事もあるが、まったく接点の無かった人と、交誼が拓けることもある。出会って後に、内閣官房参与に就任し北朝鮮による拉致被害救済で時の人となり、参議院議員として活躍した中山恭子さんもその一人だ。ある日、知己を得てから親交が続き、「共生」をテーマに各地で対談をさせていただいた。21世紀こそ、国境や政治の壁、宗教の違いを超えた地球市民の時代にしなくてはならない。そうした時代のキーワードは「共生」であり、その理念を追求する上で、多くの示唆を受けた。
■シベリア抑留者が建設の劇場で『夕鶴』
まず中山恭子さんの華麗な略歴を記しておこう。1940年1月生まれ。群馬県立前橋女子高等学校を経て東京大学文学部卒業後、大蔵省に入り、四国財務局長、大臣官房参事官兼審議官などを歴任。その後、国際交流基金(ワシントン)常務理事、駐ウズベキスタン大使兼タジギスタン大使を務め、2002年9月から2年間、北朝鮮による拉致被害の家族を担当する内閣官房参与や内閣総理大臣補佐官に就任。拉致被害者を北朝鮮に返さない方針を貫いた。
2007年から参議院議員(自民党、比例区)に当選。福田康夫改造内閣で、内閣府特命担当大臣(少子化対策、男女共同参画)、拉致問題担当大臣、公文書管理担当大臣に。その後、自民党を離れ、日本のこころ代表、希望の党顧問・選挙対策委員長などを務め、2期12年間にわたる政界を引退した。夫は衆議院議員の中山成彬さんだ。
大阪在住の私が中山さんに初めてお目にかかったのは1999年7月、東京のホテルで平山郁夫画伯への面会に同席してのことだ。その日、朝日新聞創刊120周年記念特別展「三蔵法師の道 シルクロード」の記者発表で平山画伯に講話をしていただいた。8月にウズベキスタン大使に着任するという中山さんが平山画伯に挨拶に訪れたからだ。
当時、日本の女性大使は珍しく、しかも大蔵省出身も異例だった。平山画伯は激励と期待の発言をされ、ウズベキスタンについて懇談した。私がそれまでに3度訪ねていて、特別展にもウズベキスタンから出品されることになった経緯などを説明した。このことが何度もお会いする、きっかけとなった。
着任直後の11月、中山大使は会場の東京都美術館にウズベキスタンの外務大臣らを伴って鑑賞することなる。大阪在住の私が駆け付け、案内役を務めた。ご縁が続くもので、国立民族学博物館名教誉授の加藤九祚さんがウズベキスタンで発掘している出土品の展覧会を開催することになり、現地の大使館から便宜を図っていただいた。2002年には加藤九祚さんの発掘成果の展覧会「ウズベキスタン考古学新発見展 加藤九祚のシルクロード」が東京を皮切りに奈良・福岡の三都市を巡回した。東京展の開幕懇親会には、中山さんも駆け付け祝辞を述べられた。
この展覧会準備のため、2002年3月に現地を訪れた。加藤さんが文化財発掘の貢献が評価されテルメズ市から名誉市民の称号が贈られることになり、思いがけずタシケントの公邸での夕食会に招かれた。祝宴の計らいだった。席上、国際交流基金主催により2001年8月、ウズベキスタンで開催された『夕鶴』公演に話が及んだ。
会場のナボイ劇場はレンガ造りの重厚な国立オペラ劇場で,その建設にあたったのは戦後旧ソ連がタシケント市に移送した元日本兵約450人だった。1960年代の大地震で他の公共建物がほぼ全滅した中で唯一残った。以来ウズベキスタンに”すばらしい日本人伝説”をつくるきっかけとなった建物だった。『夕鶴』終演後、ナボイ劇場建設に携わられた元日本兵の方々が舞台に登場し、万雷の拍手で迎えられたのだった。
中山大使も、この和式オペラとナボイ劇場の歴史に感動し、「日本の舞台装置や技術,特に照明のすばらしさなどはウズベク側のオペラ関係者に大きな感激を与えたようでした,こんな人的交流の深まった文化協力は初めてかもしれない」と、感慨深く、振り返っていた。
その『夕鶴』公演が加藤さんの祝宴の翌月、大阪の第44回大阪国際フェスティバルで実現することになっていた。中山大使は「ぜひ帰国して、もう一度あの舞台を見たい」と話された。その旨を朝日新聞の大阪代表に伝えると、「ご招待しよう」ということになった。当日はフェスティバルの役員であり、私の所属していた企画部の上司であった見市元さんが接待することに。見市さんは東京経済部時代に大蔵省担当で、中山さんと旧知でもあった。
終演後、中山大使を囲む夕食会が持たれた。中山大使から「そろそろ任期を追えます。在任中にタシケントに来てください」と誘われた。見市さんは、その甘言に乗じ、私を誘い夏休みにウズベキスタンに出かけた。世界遺産のサマルカンドやブハラなど各地を観光し、帰国前夜、見市さんと私は公邸に招かれた。私にとって2度目で、面識のできた大使館スタッフも交え歓談した。
■北朝鮮による拉致は「日本の主権侵害」
帰任後は一転、北朝鮮拉致問題に取り組み、内閣官房参与から総理大臣補佐官の重責を担う。それは意外と知られていないが、まずウズベキスタンに着任直後の8月末、日本人の拉致問題に遭遇され、適切に対処されていたことが伏線にあった。
隣国キルギスの南西部で日本人鉱山技師4人を含む7人が反政府武装グループに拉致される事件が発生した。犯人はタジキスタンで活動していたイスラム原理主義グループで、日本人らを引き連れタジキスタンの山岳地帯にたてこもった。
中山大使は、タジキスタンも担当していたので、大使館で対応すべきと考えていた、しかし外務省は「事件が起きたキルギス政府に交渉を全て任せる」という方針だった。本国の指示はなかったが、中山大使は「現地の大使館が出来る限りの努力をするのは当然です。救出出来る可能性が少しでもある限り、自分たちが出来ることをしようと、大使館の職員達が一丸となって取り組みました。」と述懐する。
武装グループに対して影響力を持つウズベキスタン政府やタジキスタンの関係者を通じて交渉や説得を行い、人質の解放に成功した。事件発生から64日ぶりに全員が救出された。この解決の背景に中央アジアの人々と交友関係で結ばれ広い友人ネットワークを持っていた大使館職員がいたのだった。
こうした経験が買われたのか、北朝鮮拉致問題担当の内閣官房参与に抜擢された。その時期、小泉純一郎総理の訪朝の精華として、拉致家族が一時帰国が認められた際に、中心的役割を担った。
拉致問題をどう捉えるかについて、中山さんは「政府の中にもいろいろな意見があった。北朝鮮との交渉をめぐって政策的な違いもあった。5人の被害者が日本に帰ってきた時、政府の中では、一時帰国したものであり、北朝鮮に戻すことが既定のこととなっていた。しかし北朝鮮による日本人拉致は犯罪行為だ。被害者を再び犯人たちの手に戻すことはあってはならない」と考えた。
まず5人に問い合わせると、「日本に残りたい」との希望を伝えてきた。さらに国民が拉致されているのだから、主権が侵害されている問題だ。5人が希望するからというだけでなく、日本として拉致被害者をどうするのか。中山さんは、「戻すのか日本に留めるのか、について政府が決断しなければならない問題だ」と主張した。最終的に、5人の意思にかかわらず、日本政府が5人を日本に留めるという方針を決定した。
内閣官房参与退任後の2006年9月には、私の紹介で大阪のリーガロイヤルホテル中山さんの講演会「地球に生きる~未来を見据えて」が開かれた。在任したウズベキスタンや拉致問題に関わられた顛末を語られた。「そして拉致問題は被害者・家族だけでなく日本人一人ひとりに関わる問題。日本人すべてが全面解決をと、叫び続けることが重要です」と強調されていた。そして国家のあり方や役割に言及し、「アジアの中の日本」について提言された。穏やかな口調ながら、いかに拉致家族の信頼が厚いのかを察した。
これより先、拙著の『夢追いびとの不安と決断』(2006年、三五館)の出版記念の集いが、在住の大阪と、朝日新聞の支局長を務めた金沢、故郷の新居浜で催されることになり、いずれかに出席をお願いしたところ、3カ所とも引き受けてくださった。金沢では、二次会まで加わり、私の知人らとも夜遅くまで付き合っていただいた。
2007年1月には、東京の朝日カルチャーセンターと京王プラザホテル連携の公開講座で対談させていただいた。その中で、21世紀を、友好と文化の世紀というとらえ方をしたい、とつぎのような趣旨を述べられた。
■「文化のプラットホーム日本」を提言
国会議員としての活動にも注目したい。2007年7月の参議院選挙で初当選した。その年秋に東京で画廊を経営する藤井公博さんと表敬訪問した。その後、後援会に入り、年4回の「国政報告」が送られてきた。拉致問題の支援には継続して取り組み、拉致被害者の家族の信頼が他の政治家より抜きんでていた。横田夫妻の活動に寄り添い、全国各地に出向いている。こうした拉致問題だけでなく、中山恭子後援会は2008年7月 政策研究活動を推進するため「日本文化による国際貢献を考える研究会」を設立した。
趣意書には「経済力だけでなく、日本文化の持つ共生、調和の力を活かす」、「日本全体を文化交流の場として国際社会に提供する形で、日本の文化力を世界に発信する」、「課題を政策提言としてまとめ、実現へ向けた活動へ」などが盛られた。
趣意書に基づき、年4回のペースで、講師を招き研究会を重ねた。その講演録を後援会のメンバーらに送付している。私も毎回拝見しているが、一流の講師の「文化」をテーマにした講演内容は、写真や関連資料も掲載されていて読みごたえがある。
第1回は東京大学名誉教授で大原美術館館長の高階秀爾さんが「西洋の美・日本の美」について、美術作品や建築、庭園などを比較し、その違いを説明した。講師には、元ユネスコ事務局長の松浦晃一郎さんはじめ、作家の半藤一利さんや、外国の方からも法政大学国際戦略機構特別教授のヨーゼフ・クライナーさん、ポーランド共和国特命全権大使のヤドヴィガ・M・ロドヴィッチ閣下ら幅広い分野の方に要請している。
第13回にはデザイナーのコシノ・ジュンコさんを招いている。2011年10月から母親をモデルにしたNHK連続テレビ小説「カーネーション」を放映中だった。テーマは「東日本大震災の復旧、復興に向けて」と「時代に生きる」についてだった。この時は、コシノさんの希望で、中山さんも壇上に上がって、相槌を打ちながらなごやかな雰囲気で行われた。
こうした研究会を続ける中、2009年9月には政策提言を作成するための作業部会を設置し、2010年6月に、「世界中の文化が輝き、溢れ、交流する「場」をめざして―文化のプラットホームとしての日本」の提言の発表にこぎつけた。
そして文化の交流する「場」の考え方は、世界の人々が出会う「場」であり、文化を持ち込み、持ち帰る「場」であり、共生社会への国際貢献の「場」と位置づけている。その上で、日本に暮らす一人ひとりが、「文化のプラットホーム」の担い手となることが、「開かれた日本」への道だ、と説明する。
こうした施策を新刊『国想い 夢紡ぎ』(2011年、万葉舎)にまとめた。そして出版記念「日本文化による国際貢献を考える集い」を催した。政治家のパーティーに出席するのは初めてだったが、短期間での精力的な活動に興味津々だった。
私は執筆活動の一環としてインタビューをお願いした。多忙な議員活動の時間を割いて、以下は2011年12月初めと翌年1月末の二度にわたって応じていただいた中山さんとのインタビュー内容(一部)だ。
■日本人墓地に桜の苗木を植える活動
中山さんの著書に『ウズベキスタンの桜』(2005年、KTC中央出版)がある。大使を離任した後も、毎年一回はウズベキスタンを訪問し、日本でも、関係者との交流が続いている。中山さんにとって、第二の故郷のようになったウズベキスタンとの交流を思い入れたっぷりに綴った。
ウズベキスタンの首都タシケントの中央公園や日本人墓地などに1300本もの桜の苗木が植えられたのは2002年。この植樹に尽力したのが、当時ウズベキスタン共和国特命全権大使を務めていた中山さんだ。著書には桜植樹の顛末も書かれ、本のタイトルは、桜を介した国際交流の思いを込めたそうだ。
旧ソ連に抑留されウズベキスタンの地で亡くなった元日本兵は、ほとんどが若者だった。日本に帰ろうと頑張っていたが、帰国できずに亡くなり日本人墓地に眠る。中山さんは、この光景を見て、「土まんじゅうの前に立ちました時、訪ねる日本人もないまま長い間、遙か異国の地で眠っているのかと痛感しました。せめて墓地を整備し、桜を植えたいと思いました」と振り返る。日本で募金をお願いし、そのご芳志をもとに、13カ所の墓地全ての整備を終え、鎮魂の碑を建て、桜の苗を植えることが出来たのだった。
墓地と中央公園にも600本の桜を植えた。合わせて27種類の桜1300本のほか、梅、桃も100本植えた。植植樹祭の時に、中山さんは「桜は綺麗に咲くまで、20年ほどかかります。日本では桜が咲けば美しい花を喜び、宴を催すのです。20年ほどしたら、桜も大きくなりますから、その時は一緒にお花見を致しましょう」と約束していたのだった。
この話を聞いた私は、「お花見に同行させてください」と申し出ていた。歳月が流れ、20年後の2022年春を迎えたが、思いもかけない世界的な新型コロナ禍とあって実現できないのが悔やまれる。
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