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革命30周年のイランで迎えたお正月 壮大な王宮の痕跡とどめるぺルセポリス

 新年を異国の地で迎えたことがある。イランでは、太陽が春分点を通過する時刻を新年としている。訪れた2009年は3月20日午後3時13分だった。テヘラン行き国内便の出発を待つタブリーズ空港でカウントダウンが始まり、「ノウルーズ」と祝われる新しい年の幕開けと同時に、拍手に包まれた。この年、イスラム革命から30年を迎えていた。イランを取り巻く国際情勢は、核兵器開発などをめぐって10数経た現在も変わらず厳しい。激動の中東にあって、はるか7000年前から悠久のペルシャ文明の歴史を刻んできたイランへの旅は好奇心を掻き立てた。10日間の旅ではあったが、大方の日本人の先入観を覆す印象記を綴ってみよう。

テヘラン都心から雪山を望む

■新年「ノウルーズ」を家族が集まり祝う

「ノウルーズ」で飾られた新年用の縁起物

 お正月の街中では、公共の場はもちろんホテルロビーや店頭にも新年の縁起物が並べられていた。ペルシャ語でSの頭文字が付いた7種で、赤い金魚や鏡、イスラムの聖典、さらに大麦を発芽させた小さな鉢などだ。正月は商店もほとんど休みで、家族や親戚が集まって新年を祝う。日本で失われつつある家族の絆は深いといえる。

 年の瀬のあわただしさは日本と同じで、バザールは買い物客でごった返していた。世界有数の産油国とあって、当時のガソリン代はリットル約10円そこそこだった。このため自転車を見かけない程の車社会。道路は車であふれ、路地まで渋滞が続き排気ガスを撒き散らしていた。都心部から望める4000メートル級の雪山も年々かすんできたと聞いた。ただし、お正月は外出が少なく道路も空いていて、美しい山並みを眺めることができた。

テヘランのバザール
バザールの店員

 革命によって宗教が政治を支配する国となったイランでは、女性はチャドル姿を強いられていた。街で見かける女性は、黒いベールを頭から足まですっぽりとかぶって黒ずくめなので、最初はとても奇妙だった。しかし、よくよく見ると、若い女性の足元に見え隠れするのはヒールの高めなパンプスとジーンズのパンツスタイルや、ベールもファッションの一つになっているようで、明るい色のベールを付けている女性も多かった。

バザールの買い物客
戒律の国ならではチャドル姿の女性たち

 バザールや女性専門店のショーウインドには、原色系のカラフルな色で肌を大きく見せる形のデザインのドレスも陳列されている。家の中では、自由でとても派手な服装で過ごしているのだろう。ただ男社会の中にあって、イスラム女性の多くは、夫に尽くし守ってもらうことが一番の幸せだと思っているようだ。交通機関なども男女で分けられているとはいえ、女性の大学の入学者は60パーセントを超すそうだ。イランの女性が自立した人間としてどのように社会進出していくか課題でもある。

 街を歩いて気付いたのが、ザカートと呼ばれる喜捨用のポストだ。日本の郵便ポストの数より多くあった。イスラムの教えが国民に浸透しているようだ。旅の間、ホームレスや物乞いの姿を見かけなかったのも驚きだった。どこの国にも格差が生じているが、貧困者を家族や親戚、そして社会が支えているように感じた。

ザカートと呼ばれる喜捨用のポスト

 ちなみに、この旅は旅行社が企画したツアーではなく、日本在住のイラン人音楽家を介し集った17人の有志による道連れだった。メンバーの中には面識が無い方も多くいた。筆者は知人が半数以上いて、つなぎ役でもあった。代表格は元NHKのシルクロード取材団長を務めていた鈴木肇さんだ。

有志が道連れのイランの旅同行者
引率の鈴木肇さん(左)と筆者

 イランは何度も訪ねていて、現地の知り合いが、旅の案内役だった。

案内役のイラン在住の音楽家・バーラムさん(左端、故人に)と筆者(右端)
テヘランにあるバーラムさんの自宅
テヘラン地下鉄のタレグハニ駅
聖職者たちと鈴木肇さん(左端)

■ホメイニー廟に見た「存在感」の大きさ

 イラン革命の1979年に米国大使館占拠人質事件があったことは、記憶に生々しく残っている。アメリカが元国王を受け入れたことに、イスラム法学校の学生らが反発し、大使館を占拠し、アメリカ人外交官や警備員とその家族らを人質にした事件だ。アメリカの救出作戦の失敗などを経て、イランは仲介国の働きかけなどでレーガン大統領の就任日、444日ぶりに人質は解放されたのだった。

 事件の現場を見たいと案内役に申し入れたが、「車で通過しますが、車を止めたり、写真を撮ったり出来ない」とのことだった。宿泊していたホテルで市内地図で見ると、約30分の距離なので、翌朝散歩がてら訪ねた。広い敷地を一周したのだが、至る所に監視カメラが設置されていて、撮影禁止の看板も掲げられていた。大使館の塀にはアメリカを誹謗する落書きがそのまま放置され、建物は政府の管理下にあった。勝手口からナンが運び込まれていたのを目撃しました。警備員のためのものと思われた。

 私は朝日新聞社の整理部に籍を置いていた頃、連日のようにイラン革命前後のニュースを追い、その変化を報じる見出しを付けた思い出がある。革命の翌年には8年間に及ぶイラクとの戦争に突入した。その時、イラクに加担したアメリカはイラクのフセイン政権を崩壊させた。ブッシュ前米大統領によって「悪の枢軸」とか「中東の火薬庫」とレッテルを貼られ、「暗く危うい国」という認識もあった。

 イラン革命といえばホメイニー師の顔が思い浮かぶ。帰国前日にテヘラン郊外にある廟を訪ねた。地下鉄の最南端駅を降りると、ホメイニー師が眠る霊廟が見えてくる。廟は大きく建設途中だったが、正月とあって、日本の寺社への初詣での様に参拝者が詰めかけていた。男女別の入口を入ると一面に絨毯が敷き詰められている。奥まった大広間に格子戸で囲まれた一角に写真額が置かれた棺が安置されていた。

 現地の紙幣にも使われているホメイニー師は政府批判を続け、国外追放処分を受けフランスに亡命するが、国外からも国王への抵抗を呼びかけ続けた。1979年に反体制運動の高まりでパーレビ国王が亡命したのを受けて、15年ぶりに帰国を果たし、イラン・イスラム共和国の樹立を宣言し任期4年制の大統領の上に立つ最高指導者となったのだ。

ホメイニー師は1989年に86歳で他界したが、最期の言葉は「灯りを消してくれ。私はもう眠い」であったと言う。私たちがイランを去る前日の3月21日、ホメイニーの妻ハディージェ・サカフィーが93歳で死去したが、この廟に祀られるかどうかは不明とか。ホメイニー師の存在感はなお大きいと感じた。

写真額が置かれたホメイニー師の棺

■壮大な王宮しのぶペルセポリス

 旅のハイライトは、世界遺産のペルセポリスだ。地中海世界からインドに至る広大な領土を支配したアケメネス朝ペルシャの都で、紀元前6世紀後半にダレイオス1世が建設した宮殿群だ。紀元前331年、アレクサンドロス大王に攻め落とされ廃墟となった。古代オリエント文明を代表する遺跡で、イラン革命の1979年に世界遺産に登録されている。 

壮大なペルセポリスの遺跡

 12万5000平方メートルもの遺跡には、かつての壮大な王宮の痕跡をとどめる建造物が散在していた。あらゆる民族を迎え入れるという意味を持つ「万国の門」は4本の石柱が残り、一対の牡牛像と人面有翼獣身像に圧倒された。ペルシャ王に謁見するためにやって来た様々な民族の姿を刻んだレリーフの階段を挟んで「謁見の間」や「百柱の間」などが往時のスケールを偲ばせる。帝国の繁栄を支えた「王の道」や「カナート」と呼ばれる砂漠の灌漑施設にも驚かされた。

ペルセポリスの謁見の間
ペルセポリスの王墓
壮ペルセポリスの宮殿への階段に描かれた朝貢者の浮彫

 「私は王の中の王」と宣言したのはアケメネス朝を開いたキュロスⅡ世だ。征服したそれぞれの地域の伝統、しきたり、言語、宗教を尊重し、寛容な政策で統治し、巨大な異文化共存国家を形成した。そして諸国、諸部族から貢物を携えた使節団を迎え、忠誠を誓わせる政治を行い、世界で初めての「人権宣言」を発したのだ。そうした歴史を通じて自らの伝統に誇りと自信をもつイランは、革命後もアラブとは一線を画した統治を続けている。

ペルセポリスに来た女学生たち
ペルセポリスの観光客

 イラン高原の中ほどのオアシス都市、イスファンにあるイマーム広場も世界遺産だ。16世紀にアッバース1世が手がけ何10年もかけて建造されたという。豪華な宮殿やモスクとともに幅500メートを超す回廊には、みやげ物屋が軒を並べ、時の経つのを忘れるほどだった。

世界遺産のイスファンのイマーム広場
イマーム広場にあるモスク

 イスファンを南北に貫くイスィー・オ・セ橋は1602年に完成した名橋。「スィー・オ・セ」とは33を意味し、橋上部のアーチが33あり、長さは300メートル。車は進入禁止で、いつも人通りが絶えない。

アーチが美しいスィー・オ・セ橋のライトアップ

 さらにアケメネス朝が起こったシーラーズはバラと詩人で知られるファールス州の都だ。旅に携えた『ペルシャの詩人』(蒲生礼一著、1964年、紀伊國屋新書)に紹介されたサアディーとハーフィズを輩出した土地で、廟を訪ねた。

シーラーズのハーフィズ廟は市民の憩いの場

 このほかゾロアスター教の神殿のあるヤズドや、トルコのカッパドキアを彷彿とさせるダブリーズ郊外のキャンドァーン村なども印象に残る土地だった。

ヤズドの名所、2本のミナーレがそびえ建つアミール・チャグマーク広場
鳥葬が営まれていたヤズドの沈黙の塔
イランのカッパドキア、キャンドヴァン村

■あの『千夜一夜物語』の舞台は、いま…

 あの『千夜一夜物語』の舞台は、文字通り夢の世界ではあるが、エキゾチックな趣に満ちたペルシャの動向には、帰国後も関心を寄せている。イランの核問題は、2002年に核兵器開発疑惑が浮上し、欧米などはイランに経済制裁を科し、中東の緊張が高まった。アメリカは、オバマ政権時代にイランと関係改善を図り、2015年にはイランの核開発を大幅に制限する見返りに、経済制裁の解除で合意した。ところが、2018年5月にトランプ大統領が合意から一方的に離脱し、再び経済制裁を科した。バイデン大統領になって、間接的に対話が進められている。

 イランの内情は、ホメイニー師逝去後、ハメネイ大統領が最高指導者に選出された。政権はラフサンジャニ、ハタミ、アフマディネジャード、ローハニ各大統領(いずれも2期8年)を経て、昨年ライースィ大統領が発足した。 革命によって宗教が政治を支配する国となったイランは、飲酒ご法度、快楽・世俗主義を排している。しかしインターネットの規制もなく、衛星テレビを見ることも黙認されている。アメリカを敵視する政治の方針とは裏腹に、国民生活の西欧化が急テンポに進んでいるのも現状だ。

 日本での先入観と全く異なり、人々は普通に暮らしていると思った。遺跡めぐりや街中で出会ったイラン人は親切で大変人懐っこく、親日的であった。子どもや女性が予期に反して私たちと一緒に写真を撮りたがり、明るい表情を見せていたのが印象的だった。米国発信情報に振り回されてイランの真の姿を知らなかったのだと反省させられた。

 冒頭に記した、私たちの旅を引率した鈴木肇さんは、イランを「ハリネズミ」に譬えて次のように分析していた。

「俺を襲おうとするなら、お前たちひどい目にあうぞ」と、威嚇している。イランは、まさにこの「ハリネズミ」だ。しかし、ハリネズミは、ハリの内側は、やわらかい。ハリに守られて身は安全だ。うまいもので腹をみたし、午睡を楽しむ。イランという国へ入った人が共に感ずる、あのやさしさ、ホスピタリティは、この「イラン・ハリネズミ」論で説明がつきはしないか。 

 一方、欧米の民主主義のように平和的で健全な自浄作用をもっているのかどうか、という点になると、正直、疑問を感じざるをえないのも事実だ。高い失業率、インフレ率、政治的自由度の不十分さ、宗教政権の不明朗さなど、現地で現状に批判的な声も耳にした。イランの人たちがどのような解決策を見つけるのか、遠い国と思っていたイランが遠いけれども近い国になった。

 イスラム社会の戒律は私生活主義が蔓延する日本にとって見習うべき教えも多分に含まれていることも痛感した。観光地や街頭で多くの笑顔に触れ、とても親日的だった。イランと言えばイスラム宗教国、そして厳しい戒律と男女差別や抑圧の国、といった連想は単純すぎるように思えた。イスラムの教義と民主主義を両立することの矛盾を抱え、革命30年後のこれからのイランの動向に注目したい。

イランの子供たちと筆者

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