見出し画像

「どうぞご自由に」と思うこと

あの日の自分の言葉

調和はこれからの世界や自分の人生にとって必要だし大切なものだと思う。

しかし、調和と同調は似ているようで完全に違うものだ。

みなが同じである必要はないし、他人を尊重するために、その人と同化する必要などどこにもない。

個性や違いもこれからの時代に欠かせないものだと思う。

自分の個性を尊重してほしいのは当然だし、そうであれば尚更、他人の個性も尊重しよう。

いろんな人がいる、広い世界にわたしたちは生きている。
人種や歴史、それぞれが違うバックボーンを持っている。

もし自分の考えの範疇では理解できないことがあったとしても、それが他人を否定する理由にはならない。

ただ人間としての尊厳を冒さない限り、すべての人は自由なのだ。

2021年のテキストファイル

あの日の言葉に思うこと

自分たちの当たり前

昭和に生まれ、平成とともにティーンとなり、令和が今何年なのかよくわかっていない
それがわたしで、多分わたしたちという世代

学校は絶対に行くもので、大人や先生は正しくて、
小学生の体操服は男女でまったく違っていて、女子のは下着同然の形をしていた
そんな、現代では”とんでも”なことが常識だった時代

長い物には巻かれろ的な考えが、そこかしこにあって、
人と違うことをしていると目立って、ひそひそ話のネタにされた

ジェンダーなんて言葉は欠片も存在せず、他人の性へのあからさまな興味関心が開けっ広げにまき散らされていた

みんなと違うことは恥で、異端だと言われていた
多様性なんて言葉は広辞苑にも載ってなかったかもしれないな

これだけ聞くと窮屈な時代だったように思えるけど、
わたしには今の時代を生きる、あの頃の自分と同じ年頃の子たちの方が息苦しいのではないのかと感じることがある

自分の思いを世界中に届けるなんてこと想像もできない、
誰もが自分の意見を発信する手段をもつなんて考えもしなかった時代だったけれど
それでも、自分たちの価値や評判が
人からの評価や数字で晒されるようなことはなかった
その数字が自分のすべてであるように思わされることもなかった

influenceであることに憧れて、その中身や真偽などは二の次でいい
デジタルデバイスに脳を奪われ、目の前のことには興味をもたない

わたしから見ればそんな風に見える彼らも
彼らからしたら、その中にこその喜びも幸せもあるのだろうし
なんだったら、あの頃のわたしたちよりはずっとマシだと思うかもしれない

他を許容すること

どんな世代にだって、時代にだって、
それぞれの時、それぞれの人にとっての理由や当たり前がある

「へえ、今はそうなんだね」
「ふーん、昔はそうだったんだね」って、
ただ知ることだけで十分な気がする
そこを自分たちの物差しで測って口を挟んだってつまらない

わたしも他人の枠組みの中に押し込められることは遠慮したいし、
誰かに自分のフレームを押し付けようとも思わないし、したくない

「よかれと思って」と思うことは、人にじゃなくて
ご自分のためにどうぞ♡
さあみなさま、どうぞご自由に

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?