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コメディアン

 田沼は慣れない手つきで中華包丁を握った。
 長ネギを一本、まな板に寝かせ、ゆっくり切っていく。
「田沼さん、だから前も言ったじゃないですか」見かねた高橋が、田沼から包丁を取り上げて言った。「この細さのネギなら、五本くらい一気にいかないと開店に間に合わないですよ。何のための中華包丁ですか」話しながら、トントンと束ねたネギを切る。
「いやー、ごめんね。高橋君。前に指切っちゃて、なんか怖くてさ」
「ほら、猫の手ですよ。中華包丁は腹の部分がこんなに大きいんですから、刃をこれ以上、上げなければ、指なんか切りようがないんですから。ほら、目をつぶってもいけますよ」
「あー、危ない、危ないよ。わかったから」
「俺このまま切っちゃうんで、卵割っといてくれますか」
「うん、ありがとう。助かるよ」
 田沼は作業台に置かれたダンボールから卵を取り出し、お椀で一個ずつ殻を割ってから寸胴ずんどう鍋に移していく。
「いや、だから田沼さん……」高橋がネギを切りながら、ため息をつくように言った。両手で一個ずつ取って、寸胴にぶつけて割れば、二個同時にいけるじゃないですか」
「でも、一個ずつ卵の状態を確認しながら入れるように店長に言われてるし。殻も入っちゃうよ」
 高橋は、全くわかってないなぁという顔で「全くわかってないなぁ」と言った。そして、「あとでザルですじゃないですか。卵の状態なんて目で見てわかります?」と続けた。
「わかったから、急いでやるから、ね。ほら、間に合わなくなっちゃうよ」
「俺はこんなことがやりたいわけじゃないんだけどな」
「ほらほら、もうすぐ朝礼だから」

 昼のラッシュアワーが過ぎ去り、店はランチとディナーの間の遊休時間、いわゆるアイドルタイムに入る。
田沼と高橋、他数名のスタッフは、更衣室兼休憩室で待機をしていた。
「田沼さん、ラッシュ中、散々でしたね」ソファーで寝転んだ姿勢のまま、高橋が言った。
「ほんとにね」田沼は、テーブルの上に開いたメモ帳を見ながらこたえた。
「でも、田沼さんメンタルどうなってるんですか。めちゃくちゃお客さんに怒鳴られてましたよね。俺だったら態度に出ちゃうな」
「まあ仕方ないよ。悪いのは僕だしね」
「田沼さん、寝ないんですか。ライブまで三時間以上ありますよ」
「うん。ちょっと、ライブで話す内容を確認しておかないと」
「またマイク一本でやるんですか? なんか、一人コントとかフリップネタとかの方がわかりやすいんじゃないですかね。向こうも飯食いながらみてるわけだし。誰もきいてないですよ」
「はは、かもね」
「それに毎度毎度やるネタ変えてるの田沼さんくらいですよ。うちのリピーターなんているのかなって感じだし、持ちネタみたいなの? で回した方が効率いいじゃないですか」
田沼はメモ帳を閉じ、高橋を見て言った。「高橋君はさ、なんでここでライブやってるわけ?」
「俺は……」
「お笑いが好きなんだよね。養成所行こうとか思わなかった?」
「お笑いを学校で勉強するな、とは言いませんけどね。俺は実際にステージに立って、お客さんの反応を見ながら、自分の芸を磨いていきたいんですよ。それに今更、十代とかの歳下たちの中に混ざるのもきついっていうか」
「じゃあ、四十歳の僕なんて尚更なおさらだね」
「田沼さんは、なんでお笑いやってるんですか? しかも、日本人相手にスタンダップコメディなんて、尖り過ぎでしょ」
「僕もいろんな仕事をしてきたけど、今更憧れちゃったんだよね。あのステージに。誰もきいてくれないかもしれないけど、もしかしたら、誰かがきいてくれて、少しでも笑ってもらえるなら、嬉しいなって」
「なんとも……ささやかな夢ですね。まぁ、やめろなんて言いませんよ。結局ここにいる人たちは、好きでやってるんだから」高橋はそう言って、ソファーから起き上がった。
「あれ、寝ないの?」
「俺もネタの確認します」
「そっか」田沼は、またメモ帳を開いた。

 中華ダイニング笑福亭には夜の顔がある。
 昼間は地元民に愛される中華ダイニングとして賑わう笑福亭は、夜になると、店内のライブスペースでお笑いライブが開催される。所属するスタッフや営業の新人お笑いコンビなどが芸を披露し、食事を楽しみながらの笑いの時間を提供する。
「毎度お騒がせしております。今宵もお笑いライブを開催いたします」
 店内が薄暗くなり、ステージにスポットライトがあたる。
 まばらな拍手が起こる。多少のざわつきもある。お笑いライブが開かれることを知らなかった客もいるのかもしれない。
「一発目ですね」高橋が田沼の背中をさする。
「お先に、えーと、勉強させていただきます。だっけ」
「なんです、それ?」
 出囃子でばやしが鳴り、田沼の名前が呼ばれる。
 ステージに足を踏み出すと、田沼は時間がゆっくり流れていくように感じた。
 簡素なステージは、歩くたびにギシギシ音をたてた。
 マイクの前に立ち、客間の方を見ると、変わらず食事を続ける客や、隣席同士で会話をする客、スマートフォンをいじる客など、様々な顔ぶれが田沼の目に入った。
 それでも、田沼はかまわないと思った。このうち何人かは自分の話に耳を傾けてくれるようになるだろうか。そう想像するだけで、楽しい気分になる。
 マイクを握り、深く息を吸い込む。
 店内の雑音は遠のき、そこには自分と観客だけが存在する世界が創り出される。
 スポットライトが暖かく、まるで祝福されているようだと田沼は感じた。

 了

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