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「あの野郎ふざけんな」と思いながら生きていく覚悟

人生一期一会である。いい人もいれば、出会いたくなかったって思うくらい嫌な人もいる。

でも、楽天的な私は、嫌なことも過ぎてしまえば「まぁなんでも経験な訳だし、無駄じゃないよね〜。気づかせてくれていっそ有難いわ」なんて思う。
いい出会いは幸せに直結するし、辛い出会いは学びになって、考えるきっかけになって、いつかの幸せに繋がる。そう考えてる。

つまり、今つらいことも時間がたてば役に立ったりする、と思ってる。

でも、この考えでいいのか。
辛かったことを肯定していった先には「辛くないと幸せになれない」が待っているのではないか。

不幸が無くても私たちは幸せになれる

誰でも辛かった経験や思い出したくないくらい悲しかったことがあると思う。

でもそれ、肯定してしまってない?
「あれがあったおかげで」とか「あの出来事があったから」とか。

特に、辛かった出来事のあとに成功体験があると肯定されやすい。

「吐くくらいハードな練習をしたから勝てた」とかね。

でも「辛い思いをしないと成功できないの?」

自分が傷つかない限り、私は成功も幸せも得られないのか。
そんなのやだー。

だったら、どんな辛い目にあっても「ふざけんな私は毎日ハッピーに生きるんだよ!」って思って、不幸を恨むくらいの気持ちで生きた方がいいのかな。

辛いことには意味づけしたくなる。あの時あの人に傷付けられたから今がある。あれはいい学びになった。無駄じゃなかった。

でもきっとそれじゃダメだ。
辛い思いをしなきゃ幸せになれないって思ってしまう。

嫌いであることに強情に生きる

私は私でいるだけで、毎日しあわせになる資格があるのだ。
嫌な人は嫌なままでいい。
別に「時間が経ったら…」なんて思わずに、嫌なままでいいのだ。

だから、「あの人は私を不幸にした」。
いまわたしが幸せでも、それはその人のおかげじゃない。私と私を支えた人たちのおかげだ。
嫌な人を正当化しなくていい。

感謝なんてしてやらない

嫌な人は嫌な人だ。それ以上も以下もない。
彼らといつも見守ってくれる人を「感謝」のカテゴリーに一緒にいれなくていい。

誰かを嫌いでい続けるのには覚悟が必要だけど、それくらい強情でもいいんじゃないか。だって私を不幸にした人だもん。


感謝なんてしてたまるか。
あの野郎ふざけんな。許したなんて思うなよ。
お前のことなんか大嫌いだ。

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