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「まひる野」9月号特集「歌壇の〈今〉を読む」④川本千栄論集『キマイラ文語』評

<攻めた>言語論 
 田村 ふみ乃  

      
 短歌を始めた頃、文語で詠もうか、口語で詠もうか迷った記憶はないだろうか。本書は、現代短歌における文語・口語とは何かに踏み込み、丁寧に解き明かす。

 まず、第Ⅰ章の<キマイラ文語>では、言葉は常に変化するものだと改めて認識させられる。正岡子規の「六たび歌よみに与ふる書」の中で「用語は雅語、俗語、漢語、洋語必要次第用うるつもりに候」と宣言して以来、雅語のみで作られていた和歌に、当時の日常語が用いられるようになった」と、子規は和語の中でも雅語だけでなく、俗語も漢語も洋語も使うと宣言した。「そうした当時の日常語と、助詞・助動詞など一部の古語が混じり合ったものが近代文語ではないだろうか。つまり、近代文語は古語ではない」、元々がミックス文語、キマイラ的な言語だという。そして「文語は古語と現代語のミックス、文語も口語も基本は現代語」「文語と口語を対立概念として捉えることが虚しく思えてくる」と鮮やかに説く。

著者は決して文語の使用に否定的ではない。日常語の異化作用のなかで、斎藤茂吉、小池光、島田修三の歌を挙げている。例えば、

 あられもなくビニール表紙は反りかへり赤尾のマメ単もの哀しけれ          島田修三『帰去来の声』(二〇一三)

赤尾のマメ単とは、かつての人気受験参考書。その「古びた姿を詠う。一時代を象徴するがゆえに一過性のものを、長い歴史を持つ古語を混じえた文体で詠むことで、その落差に独特のペーソスが生まれる」「文語の持つキマイラ性を知り尽くし」ていて、面白いと述べる。他にも江戸時代末期から明治時代前期の和歌革新期を、桂園派の香川景樹や正岡子規、明星派の与謝野鉄幹らの活躍を中心に<旧派> <新派>について考える。

 第Ⅱ章の<近代文語の賞味期限>では、「短歌の歴史は即ち口語化の歴史」として、口語短歌の始まりを和歌革新運動期とみる。そして明治の人は近代化で西洋諸国から入ってきた概念、例えば法律や公用文を漢語で翻訳したが、この漢文書き下し調の文語文体は約一世紀を経て分かりづらくなり「賞味期限が切れた」という。さらに現代のSNSによる文字文化の変容についてもみていく。

 最後の第Ⅲ章は<口語>のつながりで、「ニューウェーブ世代の検証」として、口語化が大きく進んだライトバース期を振り返る。二〇〇一年に俵万智、加藤治郎、荻原裕幸、水原紫苑、穂村弘の五人を選び考察している。その内容と当時行った座談会を同年、別冊『ニューウェーブ世代の歌人たちを検証する』にまとめて発行した。この章はその再録ではあるが、二十年以上の時を経て読むからこそ、今、われわれが詠むべき歌はどうあるべきかを考えさせられる。

 コロナ禍の危機的状況下で若い世代をはじめ、短歌への関心が高まった。言葉を定型に置き、思いを外へ出したいという欲求をどう実現させるか。キマイラ文語とは<攻めた>ネーミングであり、文語と口語を二項対立のように捉えがちだった概念を変えてくれるだろう。読後は軽やかな気持ちで作歌できるのではないか。

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