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「まひる野」9月号特集「歌壇の〈今〉を読む」⑦春日いづみ『地球見』評

高潔な魂
 伊藤いずみ


  絵本には地球見をする家族をり三十年後の月の暮らしに

『地球見』は春日いづみの第五歌集である。
 地球見。不思議な言葉だ。帯には「遠くから地球を見る、その眼差し」とある。帯文にあるとおり、作者の興味は地球上のあらゆる出来事に向けられ尽きることはない。

  クルド語の映画にサヌレとふ女の子その名「国境」の意味を知りたり    
  にっぽんに赤ちゃんポスト増えぬなり 生れし直後に殺められしも
  執行に胸のすく者救はるる者ただの一人もをらぬが悲し
  十六歳の怒りの声は静やかに 静やかなれば胸を打ちたり
  オール漕ぐ人らは後ろ向きなれば見えまい小さきつましい岸辺

 クルド難民、赤ちゃんポスト、死刑制度の是非、環境問題、政治への不信…。それぞれの事象に注がれる作者の眼差しは、切り捨てられる弱者の側により強く向けられている。学園闘争の季節に学生生活を過ごした作者であるから、政治・社会問題を正面から詠うことに衒いはない。瑣事や私事を深化することで詩を産もうとする近年の現代短歌の世界とは、違うところからその歌は発せられているのである。世界の惨禍と不条理に対峙し、けれど作者の高潔な魂は絶望することを知らない。

  地球はいま一艘の舟揺れながら素手でわれらは水掻き出して
  アドレスにpacem友は灯しおり送信の度広がるpacem  *pacem ラテン語 平和

 作者の真っすぐさ、人類の連帯を信ずるという理想を疑わぬ生き方はどこから来るのか。キリスト者であるからか。作者は2012年より聖書の翻訳という仕事に携わっている。

  この仕事使命にあらず天よりの指名と思はむ 助けはくるはず
  「わが牧者」はたまた「私の羊飼ひ」いづれを好むや若き世代は
  「水辺」より「汀(みぎわ)」の良しと譲らない友は汀幼稚園卒

 善意と希望とヒューマニズムを惑いなく信じるかに見える作者であるが、キリスト者であれば人の内に蛇の棲むことに目を背けることもない。

  西日射すわがキッチンに吊られゐる黒き虚ろを抱く北京鍋
  十戒は光の文字に刻まれぬ 行方不明のモーセの石板
  

 ストイックとばかり思われる作者であるが、家族を詠むときはまた違った横顔を見せる。

  育児日記は見向きもせずにわが息子サッカーボールを抱きて去りぬ
  柔らかいと思へば曲がるとスプーンをぐにやり曲げたり娘の指先
 
 
 日常歌にも作者にふさわしい感受性を感じる。    
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