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時評2023年11月号

「短歌」九月号の山下翔の時評「短歌を決定するもの」は山中律雄、小池光の主張する「五句三十一音」について取り上げている。短歌はたんに三十一音であればいいわけでなく、五句から成ることを意識しなければならない、というのが山中、小池の意見だが、これに関わってくるのが句跨りの問題だ。山下は次のような歌を挙げながら口語文体の句跨りについて整理する。

靴音の消えてしまった街角でふいにモーツァルトがうたいだす  笹井宏之
果樹園に風をむすんでいるひとと風をほどいているひとの声

 『ひとさらい』より。一首目は「ふいにモーツァル/トがうたいだす」で切れて、「四句から結句への(一音だけ結句へ送る)句跨り」となっている。二首目は「風をほどいて/いるひとの声」で切れて、結句で二音と五音(連体形と体言止め)に分割されるように跨る。このような特徴をもつ歌を堂園昌彦、阿波野巧也、北山あさひ、橋爪志保から同じく二首ずつ引き、これらの歌の型がいまでは自然なものになっていることを山下は示唆する。また「口語体のうたにとって、この句跨りというのはむしろ自然に要請されるもの」で、前衛短歌の頃のような「敢えてやる」という意識は薄れていっていると述べた。

 私自身、この手の句跨りをよくやるというのもあって頷きながら読んだ。親しみやすいのは二音と五音(連体形と体言止め)の型のほうだろうか。一応小池光の「句の溶接技術」によればこの型は句跨りではなく「副句」であり、山下からもそう補足がされているが、感覚的には句跨りと変わらないのが正直なところだ。

 ここに挙げた型に限らず、句跨りの歌は実によく目にするようになったし、パターンもかなりある。では、句跨りの歌を作る心理とはどういったものなのか。確かに前衛短歌の頃ほど敢えての感覚はないだろうが、たんに三十一音に揃えたいから、というほど淡白でもないはずだ。実作者として思うに、句跨りというのはもっと、定型や韻律とやり取りを交わすなかで生まれる熱っぽい行為ではないか。歌を歌たらしめんとするときの一瞬のスパークのような手応えを求めて句跨りをとる場合が案外多いのではないだろうか。

 このときに五句三十一音の五句の意識が後退し、結果、歌のフォルムがだらしなくなることもあり得る。この点は気に留めたいところだ。ただ目立った瑕でなければ、句跨りの用い方はその歌人の作家性の一つとして受容してもいいのではないかと私は思う。特に微差僅差といわれる口語文体の作者にとっては、句跨りのチューニングによって自分独自の息遣いやリズム感覚を出していきたいという思いもあろう。

 時評は最後、いま「口語体のうた」は五句の力学や「文語体のうた」によってできた「『ぴったり三十一音』であろうとする意識」などの葛藤から離れ、以前より「もう少し自然」にあるとしている。五句三十一音と句跨りとの中間地点を探りながら、また文語文体という視点からもみて、この句跨りの問題について引き続き考えていきたい。

(狩峰隆希)