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なぜそれが、「好物だ」と知っているのか。

考好学研究室の吉田です。久しぶりの投稿です。

今年は色々と、リアルな場でも考好学のアクションを起こしていく予定で色々仕込みをしていたんですが、新型肺炎のこの有様で、見送り相次いでおります。残念だけどこればかりはしょうがない。なので、よく考好学について話すときに出すエピソードを、ちょっとずつnoteで公開してみようと思います。今回は、「好きな食べ物」の話。

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考好学のワークショップの早い段階で僕が必ず投げかける質問に、「好きな食べ物」というのがあって。まずシンプルに「何が好きですか?」と聞いた後で、「それが好きだと、なぜ気づくことができたんですか?」ときくわけです。香ばしい香りがとか、柔らかい食感がとか、甘辛いタレがとか、色々なことをこれまで色々な人がまず一言目に教えてくれたけど、僕が聞いたのは「その食べ物のどんなとこが好きか?」「なぜ好きか?」ではなくで、「なんでそれが好きだと気づいたのか?」な訳です。

読んでくれてるあなたも、ちょっと考えてみてください。






答えは、「食べたことがあるから」ですよね。

だいたい、この答えを明かすと「なんだよそんなことかよ」と、とんちを食らったようながっくりした顔をされる。でも、食べ物以外で考えてみると、この原理原則を結構忘れていやしないかと。要するにこれは、

「好きだから、食べる」

と思い込んでいるけど、一番最初の出会いの時は順序が逆で、

「食べてみて、好きになる」

なんだということです。好意と経験の、順番の関係性のお話。

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ここからいくつか話をしたりワークショップをやることもありますが、よく話すのは、「老い」とは何かという話で。

当然ですが、人間、生まれたての時は経験ゼロなので、「好きな食べ物」もゼロな訳です。何が好きな自分なのか、何も経験してないからわからない。なんでも口に入れたり手で触ったり、自分で世界におっかなびっくり働きかけながら、これは好きな感じ、これは嫌な感じ、というのを蓄積して年を取っていって。次第に好意の経験が溜まっていくと、「やる前から類推が効く」ことが増えていく。

類推が効くことは素晴らしいことで、例えば就職活動とか、九死に一生を得る瞬間とか、取り返しがつきにくい選択の時は「食べてみてから判断しよう」というわけには行かないので、過去の近い経験から類推しないといけないですよね。食べ物でいうなら、異国の地で謎のエスニックを食べないといけないけど、「これ揚げてるし、肉の匂いするし、多分、俺好きだわ。食おう。」みたいなことだけど、そうやって自分の行動力とかアクティブさを鈍らせないようにできる。

でも次第に、類推の確度も上がってくると何が起こるかというと、人生が既視感に包まれて、なんでも知ってることのような気がして退屈になってくる。あるいは、類推が通用しない「全くの未知」みたいなものを選ばなくなっていって、どんどん億劫になったり、行動力の半径が狭くなっていったり。それが「老い」の正体な気がします。

「好きだから、食べる」と「食べてみて、好きになる」

人生が最近、停滞していてつまらない!と思った時は、この二つの原理のバランスを見直すと、いいかもしれないよ、っていうお話でした。全くの未知に身を投げ打たなくてもいいから、適度に類推を使って、ほど良い未知に半歩踏み出してみる。家にいてもできることはあると思って、自分の周りや自分自身の好奇心を見回してみるGWは、いかがでしょうか。

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こんな感じで、ぼちぼち、考好学研究室で考えていることを書いていこうと思います。続きはまた後日!

サポートありがとうございます! 今後の記事への要望や「こんなの書いて!」などあればコメント欄で教えていただけると幸いです!