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意思決定筋の鍛え方

決めるのが苦手だ。出先で昼飯を食う時のお店選びから、今週末何しようから、アウトレットモールで最終的にどこの服を買うのかから、何から何まで、決めるのが苦手である。そんでもって、なんとかえいっ!と決めたところで、めちゃくちゃ疲れてしまう。ぐったりだ。あんまりにも決めるのが苦手だから、それが跳ね返って「そのお金の使い方が果たして妥当なのか否か」に対しての感度をある程度手放してしまって、「悩むのが嫌だから買っちゃって、それがベストチョイスだと後から思い込む力」だけはついてしまった気がする。いくら損してるんだろう、考えたくもない。

ひるがえって、よく考えてみたら自分の今の仕事は、意思決定をさせる仕事だったりする。若い人の考えを研究しているのも、言い換えてみれば彼らが「どんな事柄を、何を根拠に、どういう価値観にのっとって意思決定するか」の研究といえるし、人にものを買ってもらえるようにコミュニケーションのありようを設計することも、「どうやってその人に、このサービス/商品を自分の人生に取り入れることを意思決定してもらえるか」を四六時中考えているってことになる。ファシリテーションだって、プレゼンテーションだって、マネジメントだって、チームデザインだって、なんだってそこにかかわる人になんらかの意思決定をしてもらうことの支援をしている。自分が全然、意思決定が苦手なのになんとも滑稽な仕事をなりわいにしているなあと、ふと他人事のように思う。おまえ人のこと言えんのかよ、と。

言い訳をするならば、意思決定を促すことと、自ら意思決定することは根本的に違う。彼女に「今日どこでご飯食べる?」といって3つのレストランを、バランスとかバリエーションとか適度な意外性とか考えてラインナップさせるのと、「ここにしよう」とひとつを決めるのは、使っている精神力がHPとMPくらい違うように思うのです。よく、広告代理店に勤める人間は前者ばっかりやってきて、実は後者が苦手だなあと自戒を込めて思ったりする。A案B案C案どれにします?とか、調査結果はこのように出ているのでこのマーケティングプランを提案しますがいかがしますか?とか、そういうことは嫌ってほどやるけど、最後に「これ」って決めるのはいつもクライアント。要するに、決めることは主体になることで、「代理」ではないということなんだろう。責任を引き受ける行為が決めることって翻訳もできちゃうのかなあと思うと、決められない自分はどうも常に、責任を外側において、人生を進めたいのかもしれないと情けない気持ちになったりする。でもさあ、いやじゃん、責任引き受けるの笑 多分、みんな、そんなに好きなことじゃないと思う。でも、だからこそうまくいったときはうれしいし、それができる人は頼られるのかなあと。卓球の平野美宇選手のお母さんの平野真理子さんが深イイ話で紹介していた、「どんな小さなことでも大きなことでも、美宇自身のことは自分で決めさせた」というエピソードがよぎる。要するに、筋肉みたいに、意思決定も鍛えないと、鍛わらない能力なんだな。

よく考えてみたら自分が決めるのが苦手なことは、自分の中ではさして重要ではなかったり、どちらの選択肢を選んでも大して幸せ度を左右しないことなのかもしれない。そういうことで悩む時間はもったいないともいえるので、どうでもいいことほど、さっと選べるような大人になりたいと思っていたのにもうすっかり大人で、意思決定筋を鍛えそこなっておっさんになりかかっていく我が身の行く末を憂う新年。

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