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妙好人の時代がくる



こんにちは。明です。

「これから先は、今までの
 いわゆる“スピリチュアル” は
 なくなっていくんだろうなぁ」と、
 
 思うことがあります。


極端な話、
私たちひとりひとりがみんな、
自分を大切にできるようになって、

その自分から溢れた幸せが
周りに波及していくようになれば、

“いわゆるスピリチュアル”って
必要なくなるんですよね。



幸せになるために学び始めたことで、

自分に我慢を強いたり、
相手に我慢を強いたり、
周りを攻撃しているのは、

本末転倒やんね

 



これを書いてる途中で
「浅原才市」さんを思い出しました。

浅原才市さんは、
鈴木大拙さんの『日本的霊性』によって
世界に紹介された江戸時代を生きた方で、

晩年、下駄職人をしながら、かんな屑・木片・紙片などに浮かんでくる詩(うた)を綴り続け、7000首を越えるお念仏の詩を生み出されました。

才市さんは、生前、その詩を人に見せることはなったそうです。(信仰に間違いがあってはいけないと、僧侶にだけは確認のために見せたらしい)

すごい人になるためではなく、自分が心地好いからやっていたことだけど、その詩たちは、時代を経て今でも、私たちにたくさんの気づきをくれます。



なんで才市さんが出てきたんだろうと
考えていたのですが、

“妙好人(みょうこうにん)”を
伝えたかったからかなと思いました。




“妙好人”は、

在家者(僧侶ではない仏教徒)で念仏信仰に篤い人物を指し、特に浄土真宗の中で語り継がれている人物が多いです。

私は仏教徒ではないので、
勝手に解釈して怒られるかもだけど(汗

この“妙好人”を
シンプルに信仰に篤い人というよりは、

人生を通して気付き目覚め、
 心を大切にしながら生業に励み、
 喜びとともに生きた市井の人

という風に捉えています。



そして、
これからの世界を変えていくのは、

この“妙好人”たちなんじゃないかと

思っています。




以前、別の記事でも
紹介させていただいたこちらの記事、
本当に素晴らしい記事なので、
もう一度、紹介させてください!🙏

この記事の中で語られている“普通の人”は、
まさに、私の持っている妙好人のイメージです。




特殊能力を得るための修行、
それ自体は否定しないけど、

中には、半径1㍍以内が見えていない人
もいるのではないでしょうか


自身の回りは心地好い空間なのか
いまの自分はどんな状態なのか
目の前の人は笑っているか

もし、場も人間関係も
自分ではまだ整えられない段階で
特殊な力を得たとして、
その力を何に使うだろう






以前、パートナ君がこんなことを言っていました

「子育てしてる人たち、すげぇな…

 寝かしつもすごいし、
 寝かしつけた子を布団に置ける能力、
 ほんとにすごいよ・・・!」


なかなかに繊細さんな我が子は
赤ちゃんを卒業してもうだいぶ経つのに、
いまだに背中スイッチがあります(^^;


最初の頃、
これにだいぶ苦戦していたパートナ君、

同じ動作をしても、
なぜ自分のときは子が起きてしまうのか
頑張って考えていました

「何がコツなの?」と聞かれ、

「・・・何も、考えないこと…かな…」

という私の回答に
さらに頭が?になっていました😂



きっと世の中の
たくさん親御さんたちは、
子どもを寝かしつけるとき
「無になってる」、と思います。

布団に置いて腕を抜くとき、
子どもの頭や身体をいかに動かさずに抜くか
集中すると子どもにすぐ察知されてしまうけど、

まるで子ども自身が寝返りをうって自然に動いたかのように、“自然と起きた動作として扱う”と不思議とそのまま寝てくれたりするんですよね。


自覚してない人も多いかもだけど、
頭をからっぽにするってもはや瞑想だし、
意識を外した状態を意識的につくるのも、
本当はすごいこと
だと思うんですよね

もし仮に瞑想や主客合一を
普段から学んでいますって修行僧に、
親御さんと同じように寝かしつけてください
といっても、たぶんできる人のほうが
少ないんじゃないでしょうか

世の親御さんたちは、
特別な修行の場に足を運ばなくても、
日々の繰り返しの中から、
これらのことを体得していく
わけだ




子育てはわかりやすい事例がたくさんあるから、
こういう話をするときって子育てネタになりやすくてごめんなさい💦

子育てをされていない方たちにもきっと、
自分の人生や日々の暮らしの中に、【日常を生きているだけで実はすごいこと体得してた】という瞬間がいくつもあるのではないでしょうか。




今日の話は、
靈的な力が強い人たち、
高次と繋がる人たちを
否定しているわけではありません。

そのような方々も必要で大切な存在です。


ただ、みんながみんな
特殊な力を得ることが優先かというよりは、

自分に必要な力は、
人生の中に既に用意されていたり
します。



私たちは、いささか、

“自分の人生”や“日常”を

低く見がちなのかもしれません






昨日、この話を
パートナ君にしていたら、
彼がちょっとしょんぼりしながら

「でも、オレ、
 站椿功と瞑想は毎日やりたいな…」と、、


「え、ちがうちがう💦
 修行をするなって言ってるわけではなくて、

 “何者かになるための修行”は、
 これからの時代違うかもね
 って思ったのよ(^^;

 站椿功は、P君にとっては、
 才市さんでいうところのお念仏
 みたいな感じじゃない?

 特別な人になりたくてやってるというよりは、
 心地好いから、自分が整うから
 やってることだと思ってるけど。。

 だからむしろ
 それらはぜひ応援するよ!」



才市さんの場合は、
お念仏のなかに信心を見出しましたが、

この信心を見い出すところは、

動物だったり、
植物だったり、
海や山・大地だったり
宇宙だったり、
自分の中の小宇宙や内在神、とか

自分が心地好く感じるもの
頑張らなくても信じられるもの

に置き換えられると思っています。






最後に、

才市さんのお念仏(詩)が紹介されているサイトがありましたので、よろしければどうぞ!


興味深い詩がたくさん🍀
皆さんはどの詩が好きですか?


上記サイトには載ってなかったけど、
私の中に一番残っている詩はこちらです

わしが阿弥陀になるじゃない 
阿弥陀の方からわしになる 
なむあみだぶつ

浅原才市さんのお念仏の詩より



本日もありがとうございました!🍀

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