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読書レビュー:歴史「明治を生きた男装の女医」

日本が西欧に追いつこうと奮闘していた明治時代に、怒涛の人生を歩んだ医師がいます。
当時の女性は参政権も財産権もなく、女に職業は向かないとされ、家族の「資産」として扱われていました。そんな中、自らの強い意思で門を叩き道を切り開いた高橋瑞氏についての歴史です。

後年東京女子医科大学を創設した吉岡彌生氏も、高橋氏については以下述べています。

荻野さんが日本の女医の生みの親だとすれば、育ての親に当たるのが、三番目の女医になった高橋瑞子さんであります

吉岡彌生

男装の女医とも呼ばれた、高橋瑞氏の物語です。


誤りだらけのお産

明治時代初頭は、西洋医療が普及しておらず、衛生管理も杜撰でした。当時お産で命を落とすことは珍しくなく、女性の若年死亡の主な原因は出産でした。

現在の妊産婦死亡率:10万に対し約3
明治25年ごろ:10万に対し400

万全の体制で医者に望んで出産をする今でも、可能性は0ではありません。しかし、当時は今より133倍死ぬ可能性が高かった
しかも、明治は女性1人が7,8人を産む時代です。避妊知識や技術もなく、ひたすら女性は死ぬまで産んでいたのではないかと思われます。

妊娠する頻度が下がった現代では、現代の女性が一番生理が多くなっています。詳細はこちらのNoteにも説明しています。

高い妊産婦死亡率の背景には、誤った知識と習慣がありました。

<当時のお産の常識>
・産後一週間を経ずに眠ってしまうと死ぬ
→産後間もない女性を眠らせないという風習が生まれた
・お産のあとは悪い血が頭に上って死ぬ
→三週間座ったままで、横になることは禁止された
→村によっては21個の『もたれ藁』をつくり、一日一個ずつばらしてなくなるまで座らせておくような習慣ができた

地域によっては多様な習慣があったでしょう。
母体に危機が及ぶことも多く、富国強兵を目指す明治政府が、人口増加のために「医制」による職業として公認された「産婆」を増やすプロモーションを行ったのも不思議ではありません。

高橋瑞も28歳の時に東京の産婆学校へ通うこととなりました。
ただし、瑞が目指していたのは産婆の先にありました。

それは、医者です。

昔から、親代わりに育てた姪が喘息で、命の恩人が出産で、命を落とすのをその目で見ていました。
産婆は確かに親子の生存率を高めますが、産婆には医療行為は禁止されていたため、本当に危ない時は医師を呼ぶ必要がありました。

そのため、高橋氏はたくさんの女や子どもを助けるため、医者になりたいと心に決めていました。

産婆試験に合格した高橋氏は、群馬県に戻って津久井磯子に弟子入りして腕をめきめきと上げます。

津久井磯子氏:
日本の助産師。助産業の先駆者であり、日本の先駆者、職業婦人としての先駆者との声も。

Wikipedia

その有能ぶりに高橋氏は津久井氏から跡を継がないかという魅力的な提案をもらいながらも、医者を志すため辞退し前橋をあとにしました。

女医誕生までの道

高橋瑞は、同じく産婆の友人とともに当時医事制度を管轄していた内務省衛生局に直談判をして、女性にも医術開業試験を受けさせてほしいと請願します。

たまたその場にいた衛生局長である長与専斎と面会し、彼はほかからも頼まれているので少し待ってくれ、という回答を受けて解散します。

事実、少なくない女性が受験を嘆願していたようです。
水滴が集まってダムが決壊するように、小さな一人ひとりが国を動かす様子はシスターフッドを感じます。

<衛生局への訴え>
・1881年には佐賀病院付属の医学校で勉強していた長崎県の女子学生が受験を希望して内務省に問い合わせがあった
・女医第一号となる荻野吟子氏が東京府に受験を願い出ていた

そして1884年9月、医術開業試験は女子にも開放されました。
当時女性で受験したのは、荻野吟子氏、岡田美寿子氏、生澤久野ら5人でした。体調不良で生澤久野は受験できず、合格したのは荻野吟子氏のみです。

なお、当の本人は資金難から当時大阪で産婆をしており、女にも受験資格が与えられたことを知りませんでした。高橋氏は荻野吟子氏の合格を知り、その日のうちに上京します。

1割しか受からないと呼ばれる難関試験に受験するには、医学校で学ぶ必要があります。資金に困っていた高橋氏は、コネも何もない状態で済生学舎(現日本医科大)である校長の長谷川泰に、毎朝校門で待ちプレッシャーを与えて、入学を許可されるのです!

高橋氏の行動で、済生学舎は伝のない女性でも受け入れるという標準を創り上げました

吉岡彌生氏が高橋瑞を女医の育ての親と言ったのは、特別な女子しか入学できなかった学校を体当たりで開き、その跡の女医希望者に道筋をつけたためであるとも言えます。

第三番目の女医へ

済生学舎に入学できた高橋氏は、貧困と男子学生からのいじめに苦心します。せっかく入学した他の女子生徒も、男子からの嫌がらせでほぼやめてしまったようです。

普通は1年かけて全課程を終わらせるのですが、月謝を節約したい高橋氏は独学でできる内容は独学で勉強し、入学の4ヶ月後に医術開業試験を受け合格を勝ち取ります。
同じ時、体調不良で受けられなかった生澤久野も合格しています。

所感

高橋瑞の医者の動機となる辛い人生と、女医になった後の華々しい躍進は本Noteではカットしてしまいましたが、本でぜひ読んでいただきたいです。

「資産」の扱いだった女性が仕事を持ち、はたまた医者になるということは、今では考えられないほど大きな壁でした。

努力家の高橋氏でさえ、幼少期から優秀さを評価していた父親が早死すると、長兄に逆らえず使用人として扱われ24歳までずっと家にいることを余儀なくされました。

なぜなら、当時は家長が絶対な権力を持っていました。
結婚は親が決めた相手に一度嫁げば何をされても逆らうことはできず、貧しい農家は農作物が取れないと代わりに娘を売った時代に、辛酸を嘗めながらも勉学に励み高みを目指す姿勢は涙ぐましいものがあります。

高橋氏は結婚すると長兄の代わりに次は夫に支配され、経済的肉体的DVを受けながら必死に逃げてやっと自分の人生を掴んでいきます。産婆になり医学の道に進むのもこの後の話です。

日本では戦後日本国憲法に男女平等を記したシロタ氏の自伝で、昭和でも人権がなかった女性についての様子が分かります。

本著のように緻密な歴史研究による発表がお好きな方は、田中ひかる氏他の著作もどうぞお読みください。

なお、本著にもある通り女医は差別用語です。どうして利用したのかは、本著末尾に書かれた内容を抜粋して、本Noteの締めにします。

しかし初期の公許女医たちは、まさしく「女医」として差別され、「女医」として生きたので、本書ではあえて「女医」という言葉を使った。「女医」が誕生してから135年。医療現場で活躍している女性医師は、7万人を超えている。

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