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こうもりあそびば的『居るのはつらいよ』

以前、こうもりあそびばに毎日のように来ていたAちゃんたち。
彼女たちは、ことあるごとに掃除を始めた。

最初は掃除してくれることをありがたく思っていたけれど、だんだん私は、もっと遊べばいいのに…と思うようになった。
なぜなら彼女たちは、掃除をするとき、いつもイライラしていたからだ。最後は必ずけんかになった。
掃除は義務でもなんでもないのだから、やめたらいいのにと思った。もっと自由に遊んでほしかった。

東畑開人『居るのはつらいよ ケアとセラピーについての覚書』(医学書院)

本書は、以前から気になりつつも、手を出していなかった一冊。
でも、いざ読み始めたら、あっという間に読み終えてしまった。
読ませ方も含めて、とても面白かった。

そして、こうもりあそびばで、Aちゃんが掃除にこだわる理由のヒントを見つけたように感じた。

■「いる」と「する」

本書は、筆者の居場所型デイケアでのエピソードを軸に、話が展開される。
デイケアにただ「いる」ことのつらさから、ジュンコさんへのカウンセリングを始めた筆者。

❝「する」ことがなくて、「いる」のがつらいから、セラピーもどきに逃げ込んだ。そしてその結果、かろうじて安定を保っていた彼女の苦しさに気づかず、状態を悪化させてしまった。❞(『居るのはつらいよ』p.50より)

筆者は、そこで「彼女」が求めていたのがセラピーではなく、本当はケアだったのだと気づく。

こうもりあそびばのAちゃんもまた、こうもりあそびばに居たいけれど、ただ「いる」のがつらかったのだろう。何かをしないではいられなかった。
そこでAちゃんがしばしば選んだ行動が、掃除だった。
掃除をすることで、Aちゃんは、あそびばに居ようとした
Aちゃんは掃除が好きというより、とにかく、こうもりあそびばに居たかったのかもしれない。
ただそうして、日常を過ごしたかったのかもしれない。

Aちゃんに、あまりにイライラしてケンカばかりするので、「そんなにイライラするなら、もう掃除しなくていいよ」と言ってしまったことがある。
Aちゃんは非常に傷ついたようだった。怒って、そして泣いた。
私にとっては単に掃除という「行為」を選ばなくて良いという意味だったけれど、それはAちゃんにとって、自分がただ居ること、存在を否定された気分だったのかもしれない。

きっと、Aちゃんはここに「いる」ことが目的だった。
その方法が、掃除だった。

■ケアとセラピー

日常を支える「ケア」と、介入し自立を目指す「セラピー」
これらは、遊びの場と教育の場との違いに似ている

こうもりあそびばは、ケアという成分の強い場だ。そもそも教育も治療も目的としていない。
(ケアの重要性が理解されにくいように、「子どもなんて放っておけば遊ぶもの」と信じている場合に、こうした遊び場の価値はわからない)

一方、こうもりあそびばでは「教育」を完全に捨てているかというと、そう言い切れないところもある。
遊びの場ならではの学びが山ほどあるし、そんな学びを大切にしているというだけで、それは「教育」とも言えるからだ。(もっと言えば、私は遊ぶことは学ぶことだとさえ思っているけれど)

筆者も「ケアとセラピー」は、成分のようなものだという。

❝二分法は敵と味方を分けて、そのあいだに高い壁を築くためにあるのではなく、曖昧模糊とした世界の見通しを、少しでも良いものにするためにある❞(『居るのはつらいよ』p.278)

こうもりあそびばでAちゃんは、友達と似たようなケンカと仲直りをくり返しながら、確かに成長しているとも感じる。
それを意図して関わっているわけではないけれど、日常をくり返すことで、結果として、成長もあるかもしれない
こうもりあそびばは、そういう場だ。

■「ただ、いる、だけ」の場

「ただ、いる、だけ」に金銭が介入してしまうことで生じる問題についても、本書は言及している。
こうもりあそびばに収益はないし、ないからこそ苦労してしまうけれど、安易にそこで収益を得る仕組みを作ってしまうのも怖い。

こうした場が、収益を得てはいけないというわけではない。
ただ、集まる人数や居る時間のみを評価軸にしてはいけないということ。

「子どもの居場所」を標榜しながら、子どもを「集め」たり「遊ばせ」たりしてしまうような活動を見ると、どこか違和感や危なっかしさを感じることがある。

こうもりあそびばではよく、「ひまい」(退屈だ)という言葉が聞かれる。
こうもりあそびばは、誰も来なくていい場だからこそ、誰かが居るようになる。そして、何もしなくて良いからこそ、何かが始まる

■まとめ

本書は、ケアとセラピーという切り口から、こうもりあそびばでの自分の立ち位置を確認できる、おもしろい本だった。

こういう本を読むと、拙著『マイマイ計画ブック かたつむり生活入門』とはまた別の形で、こうもりあそびばという場を表現できないかなと思ってしまう。

こうもりあそびばは自己資金で平日の夕方に毎日開けていましたが、子育てが中心になってきて、現在はほぼ休止状態。今後のサポートは、執筆活動の諸費用(取材の費用、冊子『小さな脱線』の制作など)に充てます。少額でも非常にうれしく、助かります。