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他者はコントロールできません!「こうあるべき」を持ち込みすぎると縛られるのは自分自身

今日はとても重要な教訓を痛感したなーということがありました。

ざっくり言うと、ほとんど無意識に「自分をよく見せたい」という気持ちが出てしまって、結果的にその糸に自分が絡め取られてしまった、という出来事です。


自分へも他人へも「こうあるべき」「こうするべき」を押し付けては上手くいかない

今日は色々な事前の刺激が重なって、「他人に映る自分像をコントロールしたい(よく見せたい)」という気持ちが無意識に湧き起こってしました。

その存在にはうっすら気付いてたんですが、うまくそれを紐解けずに、足が引っかかってコケたなという感じです。まぁ実際はなんの怪我もしてないんですが、「コケた」と勝手に自分で思っていることに驚いてると。。

結局何をしようとしてたのかというと、無理した虚像の自分のあり方を通して他人をコントロールしようとしてたんですね。

さらに言うとこういうの、時に自分に「虚像の自分」を重ねるだけでなく、人にも重ねてしまいがちです。「あの人はこういう人だ」とか、が「あなたはこうあるべきだ」とか、よく聞く話なんじゃないかと思います。

具体的には、「リーダーなんだからもっと献身的にあるべきだ」とか、「あの人はひねくれてるから何を言っても無駄」みたいなものがあるんじゃないでしょうか。前者は役割の強制、後者はレッテル貼りみたいなものですね。

虚像への自己管理は絶え間のないプロセス

これって要するに、自分の願望を人に押し付けているだけの状態です。「私がこう思われたい」とか「私がこうして欲しい」というのを責任転嫁して、虚像の自分や他人像として投影しているということ。

よくよく考えると周りくどい不毛なプロセスですが、当たり前のように自分の中に立ち現れてきます。こういうものへの自己管理は、なかなか終わりのないプロセスだなーと感じます。

一歩一歩、自分と向き合うこと

そんな周りくどいプロセスに隠れている自分自身の構造に触れるのってめんどくさいし、なんだかザワザワとします。それはある意味では核心に触れないよう、自分が編み出してきたコンフォートゾーンにもなっているのかもしれません。

一見他人に問題を着せているようで、実は自分自身が起こしてしまっていることなわけで、最終的には自分で自分と向き合わないどうにもなりません。

もちろん欠点のない聖人君子になんてなれないわけで、そうなれない自分を責めたりしても意味はないと思います。ですが、一歩ずつ自分と向き合い紐解いていくことで、虚像に一喜一憂する世界線の外に出て行きたいですね!


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