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【第12回】城山三郎 著 『冬の派閥』

御三家筆頭として幕末政治に絶大な影響力を持った尾張藩の選択と、藩内部に生じた派閥同士の対立とその行く末を描いた城山三郎氏の小説、『冬の派閥』を紹介します。

御三家筆頭 尾張徳川家

幕末の幕藩体制における重要なキーワードの一つ、御三家については、「【第6回】研究① 江戸時代をカタチづくるもの」でも触れてきましたが、またここでおさらいしたいと思います。

御三家とは、初代将軍家康の男系子孫が継ぐ、尾張徳川家、紀州徳川家、水戸徳川家のことを指し、これらは徳川氏のうち徳川将軍家に次ぐ家格を持つ特別な地位の分家です。

そのうち、家康の九男義直を祖とする尾張徳川家が筆頭で、十男頼宣に始まる紀州徳川家、十一男頼房に始まる水戸徳川家が続き、5代将軍綱吉の頃に御三家と称されることになりました。

今回紹介する作品は、この御三家筆頭・尾張徳川家の幕末明治維新期のお話です。

慶勝の藩主就任と派閥の誕生

物語の主人公は、第14代(17代)尾張藩主・徳川慶勝。
尾張藩支藩の美濃高須藩主・松平義建の次男として生まれ、幼名は秀之助、元服後は慶恕を名乗りますが、ここでは慶勝と呼びます。
この慶勝は、御三家筆頭にありながら、結果的には倒幕派につき、新政府設立に導いた人物です。

弟に15代藩主・茂徳、会津藩主松平容保、桑名藩主松平定敬などがあり、慶勝を含めて高須四兄弟と呼ばれます。
「高須四兄弟」の物語としては、奥山景布子さんの『葵の残葉』がありますので、こちらも後に紹介したいと思っています。

さて、尾張藩の藩主継嗣については、11代将軍家斉時代の頃から4代続いて将軍家周辺からの養子が続いていました。
そのため領内では、尾張からの藩主渇望の気運が下級藩士を中心に広まっていました。
この勢力は「金鉄組」と呼ばれ、慶勝の藩主就任に向けて活動。晴れて慶勝が14代藩主の座に就いた暁には、慶勝派勤皇勢力の母体と成長します。
一方、藩内の保守勢力、いわば佐幕勢力は、金鉄組に対抗して「ふいご党」と自称するようになります。

隠居・謹慎

藩主に就任した慶勝は、御三家筆頭として幕府に対しても存在力を示します。
ところが同じ頃、御三家としてより大きな影響力を持っていたのが、水戸藩の徳川斉昭です。慶勝にとっては叔父にあたります。
過激な海防思想などを咎められ隠居謹慎を命じられていた斉昭は、長男慶篤に藩主の座を譲っていましたが、この頃はその処分も受け、藩主の後見として相変わらず意気軒昂。

条約締結問題、将軍継嗣問題に時勢が揺らぐ中、斉昭は慶勝をうまく味方につけて政局を自分の意思に近づけようとします。
元々京に近い尾張に育った慶勝は、基本的には尊皇の考え。その上で公武一体を支えようとしていました。
安政5年(1858年)、井伊直弼が通商条約に無勅許調印した知らせに、その意を問おうと斉昭に連れられ不時登城すると、それを理由に幕府から隠居・急度慎(きっとつつしみ、謹慎のこと)が命じられてしまいます。

藩政への復活

実家の高須藩主である弟の茂徳が、慶勝に代わって新藩主になると、藩内の人事が一新されます。
このとき人事を指揮したのは御附家老の竹腰兵部。彼に連なる老臣や江戸詰めの長かった者たちが復活し、慶勝の側用人田宮は家禄を没収されるなど、もう一人の附家老・成瀬隼人正の系譜、つまり金鉄組に日が当たらなくなってしまいます。

しかし時代は尊皇攘夷の気運高まる頃。
閉息させられている金鉄組は、家老成瀬に「正義の士」の起用を願いでます。
成瀬は松平春嶽などに働きかけ、幕府からの指示で家老竹腰を退隠に追い込むと、慶勝派の家士たちが藩政に復活するなど、尾張家中の派閥争いは激化。

一方、幕政に参与し将軍家茂の補佐を命じられている茂徳にとって、混迷する情勢の中で、大藩尾張藩主の任は荷重だったのか、老公慶勝の存在が煙たかったのか、「一国に両主の憂ありては、施政の円滑を得られず」と、33歳にして藩主退隠を申し出ます。

16代藩主には慶勝の三男、慶宜が封襲しますがまだ6歳。事実上の慶勝の藩主復活です。

長州征討

復権後の慶勝は、たびたび上洛して京都政局に関与します。

文久3年(1863年)、薩摩藩と会津藩が結託して長州藩と尊攘派の公卿らを京から追放する、八月十八日の政変が起きます。
慶勝は長州に同情的で、「長州の御処置も、其悪を去り、其情をくみしあそばされ、内乱を招かず、外夷の術中に陥らぬことが肝要と存じ奉る」と朝廷に奏上するも逆効果。長州征討の総督を命じられてしまいます。

慶勝は薩摩藩士・西郷吉之助を大参謀として出征。この長州征伐では長州藩が恭順したため、慶勝は寛大な措置を取って京へ凱旋しました。

しかしその後、長州藩で再び勤王派が主導権を握ったため、第二次長州征討が決定。慶勝は今度こそ再征に反対します。このとき長州藩は秘密裏に薩摩藩と同盟を結んでおり、幕府軍を藩境の各地で破っていました。

この第二次長州征討の途上で将軍家茂が病気で死去、慶喜が徳川宗家を相続し、のち15代将軍となります。
その直後に、孝明天皇が崩御。
慶勝にとって、世界を闇に変えてしまう出来事でした。

大政奉還

まだ10代の明治天皇を擁して、御所内では過激派公卿たちの倒幕に向けた動きが慌ただしくなります。
諸藩においてもそれぞれの思惑で活動が活発化し、尾張においても金鉄組とふいご党の溝がますます深まって行きます。

慶応3年(1867年)10月、大政奉還。
その後、慶喜の処分をめぐって慶勝は奔走、いとこに振り回される日々は続き、慶喜に辞官納地を通告する際には、尾張藩領を宗家に返還する意向まで表明しました。

青松葉事件

その国元の尾張では、鳥羽伏見の戦いの第一報が届くや、ふいご党の一派が幼君義宜を擁して江戸へ走り、幕府軍に加わろうと動き始めたのです。
その動きを察知した京都から、「尾張は軍事上の要地であるのに、藩内に不良な姦徒が隙をうかがっている。早々帰国して処刑せよ」という御沙汰書が下されます。

尾張へ戻った慶勝は、自らの家臣を処分することに抵抗、苦悩しますが、家老・渡辺新左衛門ら佐幕派の14人に対して粛清を断行、これは彼と尾張の人たちが生涯忘れ得ぬ出来事となりました(青松葉事件)。

金鉄組の北海道移住へ

処刑者の遺族たちの幽閉は3年で解かれたものの、明治維新を挟んでもなお、怨念は一向に消えず、金鉄組など処刑者側を呪う声も上がってきます。

名古屋となったその地で住みにくくなっている金鉄派の一党を案じた慶勝は、攘夷の精神を活かすということで、北海道開拓に向かわせてはどうかと提案。
尾張士族団の入植を明治新政府は歓迎しましたが、金鉄組家士にとっては北海道移住というさらなる苦難の歴史を招くことになったのでした。

読後感と作者あとがきにみえるもの

この作品では、「熟察」の人・慶勝の苦悩が淡々と描かれており、それに続いて後半では北海道開拓に携わった金鉄組の人々の苦悩が続くので、苦難から逃れられない息苦しさを感じました。

この息苦しさの源はなんなのか、それが作者あとがきに垣間見られたような気がするので引用します。

(太平洋戦争を経験した作者にとって、)朝命とは、まだ十代の身には、絶対の正義、そしてゆるぎないものに思えた。朝命を奉じ、命を捨てて鬼畜米英を撃つ…それ以外に生きがいはない、まだ十代の私の命がけの経験であった。
城山三郎『冬の派閥』(あとがき)
朝命とは、一体なんなのか。組織にとっては絶対の正義は存在するのか。正義とは、一体何なのか。
城山三郎『冬の派閥』(あとがき)

作者自身、生涯問い続けたものが、作中の言葉の少ない慶勝の悲痛な叫びに投影されていたのではないかと、思ってしまいました。

物語は幕末・明治の時代小説ですが、体制に組み入れられる際に起こる非人間性、その普遍性などについて考えさせられる作品であると感じます。




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